94話  釣れないとき


 イトウの会ホームページの掲示板に書き込んでくれる釣り師たちは、たいていベテランの人びとで、釣技レベルは高い。書き込みの内容は、豊かな釣果が大半なので、ゲストはいつもあんなに釣っているのかと驚くだろう。しかし、どんなに釣りの達人であろうと、釣れないときは釣れないのだ。

 私にも全然釣れない時期がある。真夏や晩秋がそれである。水温が高すぎて、イトウが食わない真夏は、誰もが釣れない。いっぽう晩秋にイトウが下流や河口へとくだり、広く深い川に拡散している場合は、そういう釣り場を得意とする釣り人は釣果をあげる。私はそういう釣り場は苦手なので、釣れないというわけだ。

 釣れない日は、最初から調子がでない。天気が風雨の荒れ模様であったり、釣り師の体調が優れないこともある。

 天気が悪い場合はどうしようもない。雨で川が増水して膨れ上がり、水が茶色で泥濁りしている場合は、もうあきらめるしかない。ただし、天気が悪くても、濁らない河川はある。そういう川や沼を探ってみる価値はあるが、あまり期待しないほうがよい。

 体調が悪い場合は、釣りをやることにより、改善する場合もあるが、いっそう悪くなる場合もある。精神的に落ち込んでいるときは、絶対に釣りをするべきである。きっとよくなる。

しかし、天気は上々で、体調も極めてよいのに、肝心の魚が出ないことも多い。大河の岸辺に並んだ左右の釣り人がつぎつぎにヒットするのに、自分ひとりがカヤの外ということもある。魚はなんどもルアーを追ってくるのに食いつかないこともある。魚がヒットするのにバラシてばかりのこともある。

 「なぜだ?」

 そういうときは、ヒットしない理由やバラシの理由があるのだが、それがなかなか分からない。いずれにしても魚がそこにいるのだから、やめる理由はない。隣の釣り人のタックルを盗みみたり、自分のルアーを代えてみたり、いろいろもがいてみるがよい。

 でも一番だいじなことは、釣れないことを嘆くよりは、釣り場に立っている幸せをかみしめて、おおらかに構えることである。釣りは相手があることだから、いくら頑張ってもかならず結果がついてくるわけではない。たとえば、オホーツクの風に吹かれて、キャストすることは、どんなに強風であったとしても釣り人にとっては心地よいはずだ。嫌ならいつでもやめて帰ればよい。

 チライさんも私も、風雨の日にわざわざ川にやってくる。他に人っ子ひとりいない川岸で、顔をしかめながらも黙して竿をふる。どう見ても釣れそうもないコンディションなのに、それをやっている。なぜか。それは、どんなに心地よい書斎で釣りの構想を描くよりも、大荒れの川で実釣しているほうが楽しいからだ。万が一に巨大魚がそこで食いつくかもしれないという期待感がふつふつと湧いてくる。そして万が一でもない確率で、現実に魚が出る。

 釣れないとき、私は機械的に竿をふりながら、よく想いにふけっている。できるだけ楽しいことを考えている。宗谷にいるのに、南極に想いを馳せていることもある。眼は夕日をとらえているのに、脳はオーロラを見ていることもある。

 繰り返していうが、釣りは時の運である。技術、道具、洞察は努力で高いレベルに到達できるが、実釣で成果があがるかどうかは、釣りの神さまの思し召しだ。

釣れないときは、「釣りの神さまがドラマチックな筋書きを用意してくれている」と信じて悠然と臨むしかない。