私は病院の医師をやっているから、自分の患者さんがいる。週末に私が釣りに訪れる川のほとりに住んでいる患者さんもいる。ある秋の日、久しぶりに写真家と日本海に注ぐ小さな川にやって来た。
「ちょっと山川さんの様子を診てくるわ」
そう言って、とある酪農家の玄関を開けた。
「やあ、せんせいよく来てくれましたな。ささ、どうぞ上がってください」
「いやいや、お元気そうでなによりですね。ちょっとお宅の川で釣りをさせてもらいに来たの です」
「玄関じゃ話もできない。さあ、上がって上がって」
「いや、胴長を履いていますし、ここで失礼します」
「そりゃ駄目だ。上がって上がって。かあさん、せんせいがみえたぞ」
「それじゃあ」と床上に上がろうとしたが、ウェーダーの下はトランクスだけである。
「困ったな」と思ったが、「まあいいか」とウェーダーを脱ぎ捨てて、茶の間へ上がるところが私らしい。ひとの家にパンツ一丁で上がる方も上がる方である。阿部もウェーダーを脱いだが、彼はタイツを履いていたから、まだいい。山川家の夫人が、お茶と饅頭を持って、茶の間へ現れた。
「あらあら、せんせい可哀想に」
そういうと、すぐさま引っ込んで、一枚の紺色のももひきをたずさえてきた。
「これ息子のですけれど、履いてください」
私も、他人の茶の間にあぐらをかいて、パンツの端から大事な一物をちらちらさせるのは心苦しいので、ありがたくももひきをはかせてもらうことにした。ももひきに下半身を包まれると、安心して足を動かせる。
「いやいや、このたびはお世話になりました。この部落では、山川はもう生きて帰れないだろ うと噂されておったようです」
「ははは、それはよかった。生きるか死ぬかというような病気じゃなかったですから」
お茶をすすりながら、いつしか川に話題が移る。
「うちの川は、くねくね曲がっているでしょ。この蛇行が仕事の邪魔になるので、なんども役 所へ行って、『真直ぐにしてくれ』と陳情するんですけれど、『自然保護団体が文句をいう ので、真直ぐにはできない』ととりあってくれないんですよ」
「うーん、山川さん、酪農には不向きでしょうけれど、私に免じてここはこのままにしておい てくれませんか。ここには私の大事なイトウが棲んでいるんですから」
「釣り人には、ふざけた奴がいて、6月の朝まだみんなが眠っている2時ごろに電話を掛けて 寄越すのがいる。『山川さんですか。お宅の川はきょうは増水していますか?』などと聞い てくる。『ばか者、いまいったい何時だと思っているんだ』と怒鳴ってやった。『名を名乗 れ。非常識者』と言ってやると『名乗るほどの者じゃない』とガチャンと電話を切ってしま う」
いやはや、われわれ釣り人の恥を挙げられると、二の句が継げない。
「しかし、なかには立派な若者もいる。うちの川に三日間もウロウロいるものだから、『おい 遊んでばかりいて、仕事をしなくていいのか』と説教すると、『すいません。川のイトウを 写真で撮るのがぼくの仕事なんです』と答えよった。粘って粘って1メートルのイトウの写 真が撮れたといって、礼状を寄越しましたよ」
山川さんを怒らせる奴ばかりじゃなくて、ほっとした。
「ところで山川さん、お宅の牧場の周りにはヒグマがいそうですね」
「あー、いるよ。わたしはここで生まれ育ったけれど、ヒグマはずーっといるよ。うちのヒグ マは、悪さしたことがない」
山川牧場は川に沿った広大な敷地で、原生の面影を残す周囲の森からヒグマが出て来たとしても、驚くにはいたらない。先代から百年近くも人とヒグマが共存共栄しているのだ。お茶と饅頭をいただいたあと、
「さあ、そろそろお宅の川で竿を振らせてもらいます」
と腰をあげた。玄関で借りたももひきを脱ごうとすると、
「それは履いていってください。寒いでしょうから」
と夫人が受け取ろうとしない。こんなわけで、私はももひきの上にウェーダーを履いた。ちょっと窮屈だが、暖かくてくせになりそうである。
「おい、阿部。おれも50歳を過ぎたが、いままで他人の家にパンツ一丁で上がりこんだのは 初めてだし、お土産にももひきをもらったのも初めてだよ」
「いい話じゃないですか。あした中に、この集落の住人はみんながももひきの一件を知ってい ますよ。ははは」