88話  川で遊ぶ幸せ


 私は58歳になるが、もうかれこれ50年以上も川で遊んできた。故郷の加茂川や京都御所の外周をチョロチョロ流れる溝が川遊びの原点だった。ゴリやオイカワといった川魚のほか、ゲンゴロウなどの水生昆虫も採って喜んでいた。はじめは小さなタモですくっていたが、そのうちに竿のない手釣りに進化した。えさはドバミミズや昆虫だった。当時の加茂川は明らかに現在より自然環境が悪かった。それは京都の伝統である友禅染の布を、加茂川で洗っていたせいもあった。魚道のない小堰もあった。それでも小魚はいた。採った魚は持ち帰って、水槽やかめで飼育したが、ことごとく死なせていた。

父が本格的な釣りの最初の師匠となった。琵琶湖や滋賀県の田園地帯を流れる小河川が主な釣り場であった。日曜日におんぼろダットサンで連れていってくれた。ターゲットはコイ、フナ、モロコ、ナマズなどの川魚であった。前夜はうれしくてわくわくどきどきしながら寝た。その頃の期待感は、50年後の現在も少しも変わらないのが不思議だ。

中学高校では登山をやっていたので、一時期は魚釣りからすこし離れた。しかし北海道に来て、大学の山スキー部に所属するようになると、釣りはすぐに復活した。釣魚はいきなりサケ科の渓流魚となった。無雪期は日高山脈や大雪山の沢を使っての登山を行なったが、その際は、釣り師として食料調達には大いに活躍した。山岳渓流にはオショロコマなどは無尽蔵にいた。魚肉ハムの切れ端で1匹目を釣ると、二匹目以降は釣った魚の目玉でつぎつぎに釣った。そのころの仕掛けは、手釣りの仕掛けだけ持参し、適当な生木の枝を竿として活用した。パックロッドといった高価な道具には縁がなかった。最近の釣り人はいきなり高級な竿などの「道具から釣りにはいる」傾向にあるが、私たちは、ありあわせの安い道具でおおらかに釣っていた。

医師になると、道内各地に病院で勤務をしたが、うれしいことにどこへ行っても、魚の棲む川が勤務先の近くを流れていた。釧路川、湧別川、渚滑川、利別川、千歳川、阿寒川にはとくに足しげく通った。鍛治英介著「北海道の湖と渓流」「続・北海道の湖と渓流」の二冊はいつも車に積んでいた。ガイドブックとしてはもちろん、美しい文章で書かれた読み物としても愛読した。後に鍛治さん本人にも何度かお会いしたが、大柄で背筋のビンと伸びた精力的な釣り師であった。

1989年に稚内へやってきた。その後のことは、なんどか書いてきたので、詳述はしない。89114日にイトウ60pを釣り上げ、その美しさ、神秘性に強く魅かれた。なかなか釣果は上がらなかったが、自分の足で宗谷の河川を歩き回り、徐々にイトウの生息域やその季節移動を知るようになった。94年からはイトウのみを狙う釣り師となり、自分の釣法を確立してからは、嘘みたいに釣果があがった。イトウは決して幻の魚ではなく、釣り人の方がイトウの生態について無知なだけであると確信した。2000年には年間104匹を釣り、2005102日にはイトウ通算1000匹に到達した。私は自分の竿でイトウの生息状況をモニターしているので、11匹の詳細なデータはそろっている。0565匹、0658匹と低迷し、イトウの減少の兆しかと心配したが、07年は若魚が増えていて、また年間百匹ペースに戻っている。

私は川と50年以上にわたって付き合ってきた。幼少時には都会の川の生きものたちと無邪気に戯れ、学生時代は登山の経路として川を利用した。社会人になると週末は釣り師として川の恩恵に浴し、現在に至っている。いまは、川に釣りに行くだけではなく、イトウの研究をやり、環境モニターもやっている。川風景の美しさに我を忘れ、写真に収める。ギョウジャニンニクやヤチブキを食用に持ち帰ることもある。日常の疲労など川に着いて10分もすれば忘れている。

こうして半生を通して川にはずっと楽しませてもらい、お世話になってきた。私が現在休日を過ごしている川は、もはや日本では、ここにしかないような原始の香りを色濃く漂わせる貴重な川だ。私は川で遊ぶ幸せの恩返しをしなければならない。それは、このような川の環境を守ることだろうと思う。