77話  開幕


 開幕とはうれしいことばだ。それはプロ野球でもコンサートでもイトウ釣りでもおなじで、明るく華やかで、こころが沸き立つ。

私のイトウ釣りの開幕は、源流での産卵行動が終わったことを見届けてから、まずは下流部で竿を振ることにしている。私の開幕のとき、イトウ釣り師たちはすでにたくさん川岸に展開している。しかし私は地元の釣り師で、釣りをする時間は、冬までたっぷりあるのだから、特別に焦る必要はない。

「オフシーズンが長かったけれど、これから8ヶ月も竿を振ることができるなんて幸せだなあ」

川幅が30mもあろうという大きな川で、重いルアーをぶら下げた9.5ft竿をビューンと振って、遥かに飛んでいくルアーの軌跡を追うのは爽快だ。ルアーがドボンと水面を割って沈むと、一二三とカウントダウンして、やおらリールを巻きにかかる。いつズンと魚が食いついてもおかしくはないのだが、たいていはルアーが気持ちよさそうに泳ぐのを感じながら、手元まで引いてくるだけだ。

キャスティングとリーリングの作業を淡々と重ねながら、いつの間にかいくつもの記憶の糸をたぐり寄せて、心に残る魚を脳裏に甦らせる。ルアーの着水と同時に飛びつく魚もいれば、川の岸辺に近いかけあがりで出る魚もいる。当りがなくて、ルアーをピックアップしようとした刹那、ガバと反転して去っていく巨大魚もいる。

だいたいシーズン初めの5月に釣果に恵まれることは少ない。私はスロースターターなのだ。ここ二三年とりわけその傾向が強く、眠りからなかなか覚めない老いぼれた獅子のようだ。

川もどちらかというと濁りと増水で、あまりいいコンディションには見えない。むしろ沼や湖のほうが澄んで、手ごたえがありそうだ。しかし、釣り人から見て濁った川であっても、イトウは産卵を終えて体力を消耗し、できるだけ早く摂食行動にでて、体力を回復したい時期なのだ。したがって、油断していると、濁り水のなかでドカンとヒットして慌てる。まだ整備不良のリールが悲鳴をあげたり、キンクがとれないラインがバキーンと断裂したり、錆びて鈍になったフックから魚がポロッと外れたりする。

竿をふる手を休めて、ふと川辺を見渡すと、湿原のミズバショウ、ヤチブキが満開だ。藪のなかでキューンとかん高い警戒音を発するのは、エゾシカだ。空を見上げると、コハクチョウの大集団がV字編隊をつくって、鳴き交わしながらサハリンを目指して飛んでいく。

川岸でのんびりしていると突然携帯電話が鳴る。「出ました。90pです。まだ体色がほんのり赤い」なんていう釣友からの電話だ。

この時期に、なぜか超大物が釣れたという情報が流れる。「150pが剥製業者に持ち込まれた」「130pと思われる巨大魚をやっと陸揚げしたのに、目を離したすきに逃げられた」といった話だ。しかし、そんなモンスターの客観的な写真などの資料が世に出たためしがない。真偽のほどは分からないが、客観的データがないから、多分ガセネタだろうと私はおもっている。

開幕狂想曲とでもいうのか、フライング気味の早すぎる人たち、お祭り好きの人たち、ホラを吹きたい人たちが群れを作って、川に押しかける。車ごと牧草地に乗り入れる無法者や、ゴミをあちこちに残していく不埒者もいる。私はそういう人びとには近づきたくないので、釣り場を変える。

ともあれ、開幕はうれしい。天高くさえずるヒバリや、メスを探してせわしなく鳴くカッコウが青空のあちこちに見られる。いい季節が巡ってきた。ことしもいい釣りをしよう。