74話  美魚


 イトウの個体識別ができるかどうか真剣に考えていたことがある。しかしメーター級の巨大魚はともかく、中型魚では傷や標識などの顕著な特徴がないとそれはできないという結論に達した。それでもたくさん釣っているとイトウが美しいか否かはすぐに判断できるようになった。

私はいままで1074匹のイトウを釣って、それらのデータを保有し、ほぼ全部の写真も残している。その中には明らかに美しいイトウが1割くらいいる。ヒトでいえば美男美女だが、イトウだから美魚とでも言っておこう。皮膚に傷がなく、すべてのひれがピンとして無欠であるのは当然として、全身にほどよく肉がついて、丸みを帯び、頭はどちらかといえば小さく、体表の黒点は多く全体的に黒っぽく、精悍さは内に秘めた8090p級のメスのイトウは本当に美しいと感じる。

オスでも骨格ががっしりして猛々しく、凛とした孤高の男を誇示し、百戦錬磨のしたたかさを漂わせた美しい魚がいる。オスの見どころは、婚姻色に染まった春先の圧倒的な赤の魚体である。産卵期のオスは、年齢を重ね魚体が大きいほど婚姻色も鮮やかな赤となる。オスとしての能力、強さが鮮紅色に凝縮されているようだ。

魚の世界でヒトのような男女の恋愛があるどうかは知らないが、イトウでも美魚はもてるにちがいない。釣り師の私が美しいと感じる魚は、イトウもおなじ感情をもつとおもっている。つまり私はイトウの気持ちがある程度わかるとうぬぼれているわけだ。

美魚イトウを擬人化して物語を作るのもおもしろい。こんな具合に。

男イトウはカウンターの端に腰掛けて、初老のバーテンダーに左眼で目配せした。

「なにか御用で」

「あちらのご婦人にマルガリータを差し上げてくれ」

「かしこまりました」

女イトウは、漆黒の肌をした妖艶な美魚であった。うけとったテキーラがベースのカクテルグラスを軽くもちあげ、まくれた口唇で投げキッスを寄こした。

男は女の横のスツールにとまり、手にしたスコッチのロックグラスを傾けて、凄みのある微笑をみせた。男の右眼は義眼であった。若いころ、伝説の釣り師にやられたのだ。あの辛酸から立ち直り、現在の首領の立場をきずくまでに10年の歳月が流れた。

「おれは、釣り師を忘れていない。いつかイトウ一族でかならず復讐する」

「わかったわ。わたしが誘い出す」

女は釣り師が湿原の川岸で竿をふっているのを見届けて、男を待機させた。女は釣り師の目の前で、豊満な全身をあらわにして水面から躍り出た。釣り師の反応はすばやく、正確に魚型のうまそうなルアーが飛んできた。これに食いついたら、男と同じ運命をたどるかもしれない。

女は位置をかえて派手なジャンプを繰り返したが、そのつど身体に触れるほどのピンポイントにルアーが飛んできた。釣り師のキャストはゆるぎない。

そこで女は一計を案じた。ルアーマンの唯一の死角である釣り座の直下の水際に、二度三度と身をさらした。釣り師はなんとも美しいイトウにこころを奪われ、とっさに竿を左手に持ち替えて、背負っていたタモで女をすくいにかかった。巨大なタモが女をみごとすくい取ったかに見えたそのとき、釣り師の身体が大きく前方に揺らぎ、そのまま川中へ頭から転落した。

「いまだ。早くやっつけろ」

水底に潜んでいた男に率いられた千匹ものイトウがいっせいに釣り師に襲いかかった。

竿を握ったままの釣り師の白骨死体が河口部で発見されたのは、その年の暮れであった。