72話  年賀状


 私は毎年、その前年のイトウを抱いた写真を年賀状としている。もう18年間にわたってそれをやっている。当然ながら、大きくて立派なイトウの年もあれば、ちょっと貧弱な魚体の年もある。それでも延々とイトウと釣り師の抱っこ写真ばかりつづけていると、案外気に入ってくれて、完全保存版にして残してくれる人もでてきた。

 初期のころの釣り師は若々しく、抱っこしたイトウは小さかったが、だんだん年をとって顔のしわが目立ってきた釣り師は、大きなイトウを抱っこするようになった。年季が入ってきたのだ。しかし私の年賀状を見た友人たちが、腰を抜かすようなイトウを抱っこするにはまだ至っていない。

 年賀状でもらってうれしいのは、手作り・手書きでいかにも時間をかけて丁寧に作ったとおもわれる作品である。それに添え書きでもあればいうことない。まして、達筆の墨で宛名が書かれていれば、思わずうっとりと見ほれてしまう。

反対にありきたりの印刷された文とできあいのイラストで、添え書きもなく、宛名をコンピュータで打ち出した年賀状などはチラッと見るだけだ。こういう年賀状なら出さなきゃいいのにとおもったりする。

酒庵きらくでは、優子ママが店に届いた年賀状から「年賀状大賞」を選んで、目立つようにカウンター上のいちばん前に飾ってくれる。選考基準は誰もよく分からないが、ママが「これ」というのだから、常連客も異議をとなえることは断じてできない。多士済々のきらくの常連客の年賀状はレベルが高いが、私は二年連続して「年賀状大賞」の栄誉に輝いたこともある。これは名誉だ。

私自身がもらう年賀状で、特段にうれしいのは、矢口高雄先生の釣りキチ三平と魚の陶芸家・松尾昭典さんの魚のイラストである。プロフェッショナルのこのレベルになるともう完全保存版をとおり越してお宝となる。

年賀状の役割とはなんだろう。まずは最新の住所、氏名、電話番号、メールアドレスなどを記し消息を知らせること。短い新年のあいさつをすること。自分と家族の現況を伝えること。得意な絵、写真、イラスト、書を披露すること。そして送り手から受け手へのメッセージを伝えること。

私は常にイトウ釣りの写真を載せる。それだけで、私が多少とも年をとったが、元気であいかわらず川へ通い、イトウを釣っていることは伝わる。宗谷の川の生態系がまだ健全であることも分かる。ことしも田舎で仕事にそれなりに頑張っていることも分かる。一枚の写真は羅列した文字よりはるかに多くを語る。

宛名は肉筆で書く。私自身そのほうが温かく感じ、もらってうれしいからだ。一筆も添える。いろいろ考えて書くが、どうにも文が浮かんでこない場合は、「元気ですか」とか「ことしもよろしくお願いします」でもいい。大事なことは自筆で書くことだとおもっている。ちなみに私は仕事の文書はすべてコンピュータで作成するが、個人的な手紙やはがきは全部手で書く。高校生のころからまったく進歩していない稚拙な字は恥ずかしいが、それで時間をかけて書いている。

年賀状の送り受け取る枚数が増えるということは、交友関係が豊かになることだから、増やしていきたいと思う。親戚や仕事関係だけではさびしいので、いろんなジャンルの友人がいることが望ましい。趣味同好の士や同窓や一期一会でも濃密な仲間であった人びととは長くやりとりをしたい。

親しい友人なのに、なんど年賀状を出しても、けっして返信を寄こさないかたくなな人もいる。年賀状を出さないポリシーもあるのだろう。それでもいつかは根負けして、返事をくれるだろうと一途に出し続けるのもわるくない。返事を書きたくなるような人物に自分がなればいいのだ。

年賀状は自分の属する社会を年に一度確認しあういい機会である。釣り師の場合は、釣果を示すのがいちばん判りやすい。だからしばらくは、私のイトウ抱っこ写真の年賀状がつづくことになる。