52話  プロとアマ


 釣り師にもプロとアマがいる。しかし、プロとアマの力量の差といえば、野球や将棋の世界ほどの差はない。だからといって、プロがアマより釣りが下手というわけでは決してない。ただし技術や道具が優れていても釣果が勝るとはかぎらないのが釣りのおもしろさだ。

釣りのプロといっても、竿を振っているだけで生計が立つ人などほとんどいないだろう。トップアングラーとして名をはせるだけでは、簡単にスポンサーなど付くまい。そこで収入源として、釣り産業の中で地道な仕事をしている人が多い。釣具会社のテスター、道具の製作者、管理釣り場のインストラクター、釣り雑誌の編集人、釣り道具店経営、釣りガイドなどなどじつにさまざまな仕事で生計を維持している。

いっぽう現代日本にはバストーナメントで賞金を稼ぐプロ選手もいる。文豪・開高健は小説を書き、竿を振っていたのだが、「オーパ!」を代表とする釣り紀行もずいぶん売れたから、別格のプロといってもよかろう。

コストパフォーマンスのわるいイトウ釣りに熱中しているのは、なにも私やチライさんのようなアマチュアだけとはかぎらない。プロフェッショナルの本波幸一名人も初夏晩秋に集中して竿をふっている。宗谷の川で釣りをしているときはプロもアマもおなじ一個の釣り人である。ここでどんな釣果をあげたとしても一円にもならない。

本波プロは、プロといわれる人にありがちな派手、尊大、傲慢とは無縁の人である。寡黙、律儀、真摯である。いっしょに釣りをしてこころから尊敬でき、気持ちがよい。「ああせい、こうせい」というおせっかいな指導はないが、彼の釣技を見て学ぶことは山ほどある。釣魚の知識、釣りの哲学も傾聴にあたいする。なぜプロになったかの話はおなじサラリーマンとしては痛快である。

彼はテスト中のルアー試作品を惜しげもなく提供してくれた。自分が丹精込めて作った剛竿もくれた。その竿先を折ったら無償で修理をしてくれた。まったく頭があがらないし、プロの仕事にどうこたえていいかもわからないが、恩返しは、それらの道具でメーターオーバーを釣ることだろうとおもっている。

本波名人は、北海道でイトウ釣りだけをやっているわけではない。春に解禁になる本州の河川でサクラマスを釣らせても達人である。釣り雑誌のグラビアで彼が抱いている巨大幅広のサクラマスを見ると、おもわずウーンとうなってしまう。いまのところ、本波名人は、巨大なサケ科魚を釣り上げることをプロの証としようとしている。その目標はあくまで大きく、日本の150pのイトウ、70pのサクラマスである。どちらを先に釣り上げるか、楽しみにしている。

私はアマチュアの釣り師であるが、本を書いたときや釣り番組に出演したときは、心はプロであった。本を出版するということは、それで生計をたてるプロの写真家、編集者、デザイナー、出版会社と共同作業をやることになる。自分ひとりがアマであるという甘えは許されない。釣り番組のときも、カメラマン、ディレクター、プロデューサー、釣具メーカーは全員プロであるから、私も鬼の釣り師となった。釣りで仕事をするということは、釣り師の肩にはズシリと責任がのしかかる。「釣ってなんぼ」の厳しい世界である。どちらもいい作品を創るために身を削って最善を尽くさなければならない。

プロであろうとアマであろうと、トップアングラーは容易なことでは自分の釣り場を他人には明かさない。それは川釣り師として当然のことで、誰かひとりに教えると、あっというまに釣り人が押し寄せて、川は荒廃し、魚は姿を消す。名釣り場は釣り師ひとりひとりがそれぞれ胸に秘める魂の仕事場である。もちろん名釣り場は何人もの穴場として重複することもある。ひとりが不特定多数に公開すると、迷惑をこうむる釣り師がたくさんいる。

中央の釣り雑誌に口説かれて自分の名釣り場を気前よくさらけ出し、雑誌に書かれて釣り場を台無しにしているアマもいる。魂を売った釣り人への代償は大きい。

ただ釣りがうまいだけの釣り人など星の数ほどいる。プロの名にあたいする釣技、知識、哲学、人格の備わったひとは少ない。まして名人と呼べるひとなど数えるほどもいない。イトウ釣りの世界で、私が名人と呼んでいるのはたったふたりだけである。