第51話 パーティ |
イトウ釣り師の冥利に尽きるのは、私のさまざまな分野の友人知人が、大真面目に私の釣果を祝ってたびたびパーティをやってくれたことだ。いままですでに3回やってもらった。 最初は、1999年に阿部幹雄との共著で「イトウ 北の川に大魚を追う」を出版したときの出版記念パーティである。いまはないススキノのホテルを借り切って、挙行された。 そのとき山スキー部同期である洋菓子きのとやの長沼昭夫社長からは、なんと130pのイトウのケーキを贈られた。生地の台座は、業務用オーブンでも焼ける大きさではないので、二分割して焼き上げ、あとで合体させたという。皮膚はホワイト生クリーム。黒斑はチョコレートで仕上げられていた。その大きさにたじろいだ。見た目も味もよかったが、なにより友情が心にしみるイトウのケーキであった。 もうひとりのホテル業を営む大先輩は気をきかせて、阿寒湖の養殖イトウを取り寄せ、弓なりの立派なお造りにして私の目の前にドンと置いてくれた。心遣いはまことにありがたかったが、養殖物とはいえ私はイトウを食う気にはとうていなれなかったので、「まるで身内を食うような気がしてのどを通らない」と丁重に辞退して、出席者のみなさんに味わってもらった。 2001年には、その前年に初めてイトウを年間百匹釣ったことを祝ってもらった。このときは、発起人が阿部幹雄と南極で越冬した米山重人医師であった。このころの私は、イトウ釣り師として自信と野望に満ちた全盛期であった。 集まってくれた人びとがかならずしもイトウに興味をもっているとはかぎらないが、イトウ談義を肴に親しい友人たちと酒を飲むことはうれしいことなのである。 いっぽうパーティというのは、出会いの場でもあるのだから、かならずしも同好の士ばかりが集う必要はない。私が主役であれば、私にかかわるさまざまなジャンルの人びとが集まってくれて、その場で顔見知りとなり、情報を交換し、交友をもっていただければありがたい。私の場合、パーティに参加してくれるのは、山とスキーの愛好家、南極OB、釣り師、アウトドアマン、ススキノの飲み友達、メディア関係、最後に医療関係の人びとで、三割くらいが女性である。 私がもうちょっと外国語に堪能であれば異邦人も声をかけたいところだ。釣りはスポーツとおなじく国境を越えて通用する技であるから、釣り談義にあまり難しい言葉は要らない。やって見せるか、画像映像を見せればすぐ理解できるのだ。 2006年にはイトウ1000匹達成記念パーティを開いてもらった。このときも阿部と米山が音頭をとってくれた。出席者は30人。最高齢は草島清作名人、最年少はチライさんであった。 記念撮影、乾杯のあと、草島名人に祝辞をいただいた。名人は四文字の書「習極導悟」を持参された。釣り士は、まず習い、いつかは極め、弟子を導き、ついに悟るという。ここにイトウ釣りの真髄があるが、ご本人はまだ悟りの境地には達しておられないそうだ。となると若輩者の私などは、極めるにもほど遠い。 イチオシのキャスターであるヒロ福地から届いた祝電が披露された。 米山からは南極氷山氷が提供された。氷に封じ込められた1万年前の空気が弾ける音を聴きながらオンザロックを飲むという粋なはからいであった。これで座は一気に盛り上がった。 私は「イトウおじさんの特別講義」と題して、イトウ釣り17年間の成果をプロジェクターで示し、イトウの講演をやらせてもらった。写真は阿部が長年にわたって撮りためた貴重なショットであるから、文句なしに参加者を魅了した。 さらに「MIKIOジャーナル」も上映された。 アルコールが適度に回ってきたころからは、順不同にいろんな人びとから、スピーチをいただいた。みなさんこういう場には慣れているので、ウイットに富んだ上手なほめ方を知っている。釣りなんて毒にも薬にもいさかいの種にもならないから、みんな好きなことを言ってくれる。それがうれしい。 こうしたパーティをやってもらうと、また新たな意欲が湧いてくる。またほめてもらうために頑張ろうとおもう。まるで子供みたいだなとおもいながら、もう次の目標に走りだしている。 |