50話  釣りと家庭


 これから書くことは釣り師たるもの肝に銘じておきたい永遠のテーマである。

 「釣りを優先するか、家庭を優先するか」

 このテーマはなにも釣りに限ったものではない。

 「男(女)のエゴを貫くか、常識範囲の人になるか」

と言い換えることもできる。もっといえば、

 「自由に生きるか、自由を捨てるか」

とも言い換えることができる。

 私にもあたりまえの家庭というものがある。夫あるいは父親として一家の生計を支えるという義務はあり、それはやっている。しかし、世の大人の男どものように、家庭サービスはほとんどやらない。

週末に釣具を積み込んだ車をスタートさせれば、その瞬間からもはや社会人の顔も家庭人の顔もない。はっきりと孤高の釣り師に変貌する。オンとオフの切り替えははっきりしている。

 私は生来、「スーパーマン」や「バットマン」のような変身ものが大好きで、自分の人生もそうありたいと思っている。いつもは温厚な青年実業家が、ことが起きるとバットマンに姿を変え、バットマンカーに飛び乗って洞窟を飛び出すシーンは痛快だ。私の場合、野に出て悪を懲らしめるわけではないが、一日夢中になってイトウを追いかけ、身体は疲労しても、心は満たされて帰ってくる。

 2005年にイトウを通算1000匹釣ったときに振り返ってみた。イトウ1匹を釣るのに5時間はかかっているから、12年間で5000時間も竿をふったことになる。5000時間とは208日間となり、12年間に毎日1時間強の時間をイトウ釣りに費やしたことになる。よくもそんな気の遠くなるような時間を捻出したものだとわれながら感心する。

 釣りと家庭をみごとに両立させている釣り師も数少ないがいる。私の知り合いでも、夫婦そろってワゴン車でイトウ釣りに来るうらやましいカップルもいる。かなり先鋭的なイトウ釣り師でも、たまに小学生の子供を伴って川に来る。それは、おそらく子供にも日本産最大の淡水魚を見せたいという欲求があるのだろうし、父親の晴れ姿を見せたいという願望もあるのだろう。私の友人でも、生まれたばかりの長男を背負ったまま大河に立ちたいという人もいる。私にはできなかったことなので、ぜひ実現してほしいとは思うが、子連れ釣り師に納得のゆく釣りができるだろうか。

 いま私は家庭内では非常に自由である。子育てなどはとっくに終わってしまったし、妻は独自の生きがいを追及している。私は週末の朝から晩まで誰に遠慮することもなくイトウを追いかけることができる。イトウ釣りの友人たちと川でいっしょに竿をふり、疲れると川辺でイトウ談義にときを忘れる。ときには居酒屋でいつ果てるともしれない釣り話に興じることもある。釣りに熱中するあまりに失ったものもいくつかはあったが、それもいまは忘却の彼方に去ってしまった。

いま振り返れば、イトウ釣りに熱中したおかげで、ふつうではうかがい知ることもできない世界がひろがった。しかもその世界はいまだに膨張しつづけている。釣りを通じて得られた友人知人の数は、本業で手に入れた人びとの数と比べてもすこしも劣らない。つまり釣りという孤独な世界が、いつの間にかきわめて社会性を帯びてきたのだ。

 「遊びは真剣に、大真面目にやってこそおもしろいのだ」

 十数年かけて、家庭をないがしろにして、夢中になってようやく分かった真実である。