第45話 初夢 |
初夢を見た。巨大イトウがかかったのだ。 私は9.5ftの本波竿をふりまわし、川岸の泥炭の上に立って闘っていた。右横に写真家の阿部幹雄がいて、左横に本波幸一名人がいた。ふたりはなにも言わない。ただ見守っているだけだ。秋の陽は大きく西に傾き、斜め光線はあたりを緋色に染め上げ、ヨシ原は黄金色に波うっていた。 魚は竿を満月にしぼっていた。私はリールを巻けないでいた。まったくハンドルがいうことを聞かないのだ。ジージーとラインが出ていくのを右の手のひらで竿に押しつけて必死にブレーキをかけているだけだ。手のひらからジワリと血が流れていた。 魚は岸辺から50mも沖合にいて高速度で下流へ走っていた。まだ水面にはまったく姿を見せていない。スプルーに巻いたラインがみるみる減っていく。ラインがすべて吐き出されたらそれで終わりだ。 「止まれ!止まってくれ」 私が叫んだそのときだ。いきなり巨大な物体が水面から空中に跳びあがって、弓なりに反り、スローモーションで背中から水中に落ちた。夕日を浴びて黄金色に染まった物体はまるでザトウクジラのような重量感だ。 「バチバチバチ…….」 阿部のモータードライブが火を吹くようにシャッター音を連発した。 豪快に2mは立ち昇った水飛沫がようやく収まったとき、フッとリールが軽くなった。 「うん?バレたか?」 私のつぶやきを打ち消すように本波名人が叫んだ。 「ちがう。イトウはこちらに向かっている」 そうだ。魚の動きより速くラインを回収しなければテンションがなくなる。私はリールを必死で巻いた。こんなとき左巻きは右利きの釣り師にはつらい。それでも魚の突進に追いついた。またズシリとすさまじい重量がラインに乗った。 「頭を振っている」 水面がモワーッと不規則に乱れていることで分かる。 突然、魚が水面に浮上した。まるで大人の女の大きさだった。頭は私の頭よりはるかにでかく、金冠に縁どられた両眼は鋭く光り、カッと開いた口は握りこぶし二つがらくらく入る大きさだった。尾びれは納涼ウチワのようにバサバサと揺れていた。 「とんでもない巨大魚だ!」 私は、これを捕ったらもうこの世に未練がないとおもった。 「釣り人生最期の闘いだ」 イトウは右でザンブと水飛沫をあげたとおもえば、左で大渦を巻いた。沖合へ突進したかとおもえば、岸辺へと襲いかかってきた。私は、その都度、竿を右左に寝かせ、ラインを出し入れし、じわりじわりと時間をかけていなし、すかし、すこしずつ引き寄せてきた。 「もうちょっとだ」 イトウは竿先3mの範囲にいた。魚はそこでついに浮上した。原子力潜水艦が水面に姿を現したかのような圧倒的な存在感である。半身を水面上にさらしたその体幅の堂々たる太さ。背びれから滑らかにカーブしたスロープはいったん水面下に没し、尾びれで再びピンと立ち上がる。 「ヘミングウエーの『老人と海』のなかにもこんなシーンがあったような気がする」 もうイトウの呼吸するさまが手に取るように分かる。怪物はしっかりと視野のなかに捕捉した。あとは時間をかけて、ゆっくりゆっくり、あせらずあせらずやるのだ。 私は大川のかけあがりに立ちこんだ。魚を岸辺に追いやるために、沖合いに立って退路をふさいだのだ。竿を大きくかざして、まるで猛牛を操る闘牛士のように、イトウの突進をひらりひらりとかわした。イトウは明らかに疲れて、動きが鈍く、ときおりその巨体を横に倒し、あえいでいた。えらぶたが開閉する瞬間に真っ赤なえらが輝いて見えた。 「まだまだ、火事場の馬鹿力を残しているはずだ」 ついにイトウは巨体をひたひたの水面下に横たえて動かなくなった。私は竿を捨て、両腕で頭と尾びれのつけねをすくうようにして、魚体を水際にずらした。重くてわずかしか動かなかった。すばやくイトウに馬乗りになり、両膝で胸びれの部分をはさみ、大口に左の手指をつっこんだ。これで勝負あった。魚はもう絶対に逃げられない。 「うおー、やったぁ」 イトウは計測の結果、体長150p、胴囲75p、体重45kgであった。体重は、本波名人が車に積んでいる50kg計りでようやく測定したのだ。直径20oのウロコの年輪から20歳の老魚と分かった。そのいかつい頭部にどこか見覚えがあった。2002年に私が掛けて、ファイト中の写真まで撮って、ランディング直前にフック外れで逃げられたメーターオーバーのイトウにそっくりだった。 ひとりではまったく持ち上げられないので、私と本波名人とでイトウを抱っこし、阿部のカメラに収まった。 さまざまな撮影のあと、老魚を川に放った。巨艦はゆっくりと身体をくねらせ、しずかに大川の深い淵へ去っていった。 そこで目が覚めた。窓の外は冬景色で、音もなく乾いた雪が降りつづいていた。 初夢から超巨大イトウが登場した。ことしはきっといい釣りができるにちがいない。 |