38話  川の危険


 釣りは人の狩猟本能のひとつの表現であるから、本来それほど安全なものではない。私がやっている川釣りでも、危険とは背中合わせである。

川釣りで一番の危険は、いうまでもなく川そのものある。とくに川が増水したときの怖さは釣り師たるものは肝に銘じておかなければならない。川で溺れるのは、背丈がたたないくらい深いか、脚力で持ちこらえられないほど流れが速いか、あるいは川床が非常に滑りやすいかのどれかであろう。

私が釣りをしている宗谷の川では、流れが速いということはほとんどないから、危険は深さと滑りやすさである。私の経験では湿原の原始河川では泥底で足をとられてバランスを失ったあげくに深みにはまるというパターンが多い。まるであり地獄に吸い込まれるといった感じでぬるぬると沈んでいく。

深みにはまると、首だけ残して沈む。もう足は水中に浮いているから、慌てるなといっても無理なのだが、首が出ているということは、呼吸ができるから、水を飲まなければ死ぬことはない。私はなんどもなんどもこの目にあっているから、そうなっても竿を放さない。フワーと浮きながら、流されながら、どこか上陸場所を探す。最初から到底背がたたない川に立ちこむことはないのだから、どこかに浅場がかならずある。またあったからこそ、私がこうして生還して、こんな拙文を書いている。とにかくパニックになって、水を大量に飲んだり、慌てふためいて墓穴を掘るような行動にでないことである。

ちなみに岸辺からどん深かで、河原のない湿原の川では、釣り人の転落死亡事故も、私が知っているだけで2回起きている。どちらもイトウ狙いで、ゆるい胴長をはいていた。流域の短い小河川だったから、慌てないで浮いていれば助かったかもしれない。残念な事故だった。

いまは釣り用のインフレータブル・ライフジャケットや、浮力材のはいったフィッシングベストも市販されている。鮎用ウェーダーなどの動きやすく浸水のすくないウェーダーもある。危ない川を目指すならばそういった安全策をとるべきである。私は以前には、常にインフレータブル・ライフ・ジャケット式のフィッシングベストを着用していたが、いまは危険な所へ行くときに限って身に着けている。川に慣れてきたので、ちょっと横着になったのだ。

川に慣れるには、やはり川岸を歩くだけではいけない。立ち込めそうだとおもったら竿を川床に突き刺して深さを測るのがてっとり早い。恐る恐る川に立ちこんでみると、深そうに見える川が案外浅かったり、瀬になって浅そうな川が非常に深くて手も足もでない状況であったりすることがわかる。そういう経験を積むと、陸から川の水位が読めるようになる。川の中を歩くことによって、その川の底の状態を把握できる。川に対して無用な恐れや、あなどりがなくなる。

私が立ちこみで必ず守る自戒は、はじめての流域では絶対に下流から上流へ歩くことだ。その理由は、流れの上流へ行って背がたたなくなったら、戻ればいいだけなのだが、逆に下流へ行って深みにはまるともう戻れないからである。また川から陸へ上がる場所をいつもチェックして、記憶にとどめている。最悪の場合あそこから脱出すると決めている。

こうして注意してやっているつもりでも、痛い目に遭う。ドボンと岸から川中へ頭から落ちる。転倒して、腰くらいの水深なのに、全身濡れねずみになる。大河に立ちこんで戻ろうとおもったら足元の砂がずるずる沈んで難儀する。そういうやばいことが起こる。

いまは都会の川では、「危険だから川には近づくな」といった看板が立てられている。だから子供たちが川で遊べない。子供にとって、川ほどおもしろい遊び場はない。水遊びも釣りも生物観察もできるフィールドなのだ。私は故郷の京都の鴨川で遊んでいた。川で遊ぶことによって、川の怖さも自然におぼえた。それから50年たってもやっぱり川で遊んでいる。

雨が降って川が増水するとまるでスイッチがはいったように魚が急に活性をとりもどして釣れるようになる。この現象は釣り人なら誰でも知っている。しかし、釣り人の立場にたつと、増水の川歩きは非常に難易度が高くなる。川を渡ることができなくなる。足場もわるくなって、釣り座が限られてしまう。ポイントも消失する。魚がどこにいるのかわからない。だが私の経験では、魚は平水位のときとおなじ魚つき場にいるのだ。だから苦労してそこへ行くしかない。

宗谷の川が中を歩けないほど増水したとき、私はいくつかのとっておきの場所に陸伝いに歩いていく。薮をこぎ、汗をかき、虫にさされても、たった一投のキャスティングのためにはせ参じる。そこに到達し、ルアーを投げて反応がないときの落胆は大きいが、そのかわり着水と同時にガツンときたときの歓喜はとほうもない。