36話  イトウ千匹


 私は1989年からイトウを釣りつづけてきたが、きちんとしたデータを取りはじめたのは、1994年からである。それから、すでに12年目を迎えている。イトウはずいぶん釣っては放してきたが、その総数が2005102日に千匹に到達した。千という数字は、なにごとによらず巨大な数字である。武蔵坊弁慶は京の都で刀狩をやり、999本の刀を巻き上げたが、五条大橋で待ち受けた千人目の相手が牛若丸であった。弁慶は若武者に軽くあしらわれ、のちの源義経の忠臣になる。千本は成らなかった。

 「千という数字は大きいから、千匹釣ったらTVの特集を作りましょう」

いまやビデオジャーナリストで売り出している阿部幹雄がいう。単に千匹釣ってもそれだけでは、「それがどうした」と言われておしまいだが、私の千匹にはさまざまなデータが付いているから、いろんなことが言える。大きくいえばイトウの現状をモニターしているともいえるし、イトウの命運を占う資料にもなっている。なによりも、毎年同じ釣り師が、ほぼ同じ川で、同じ仕掛けで、同じ頻度で釣りをしての結果だから、その推移は意味があると思っている。

 振り返ると94年から私はイトウ専門の釣り師になった。すなわち、ヤマメ釣りや海釣りをやめて、釣りをするときは、必ずイトウをターゲットとすることをこころがけた。そのころは平日も週末もない。どんなに短い時間でもいいから毎日釣りをすることに努めた。当時は、経験もすくなく、またイトウの行動も読めなかったから、努力のわりには報われなかった。それでも一年間で32匹のイトウを釣った。その前年までは、一年で二三匹だったことを考えれば、画期的な数字であった。「幻の魚イトウは、案外いるところにはいる」と確信した。

 95年には自分独自の釣法をあみだした。これで釣りのフィールドが十倍くらいに拡大した。釣果は79匹と劇的に増えた。96年には69匹と一歩後退したが、97年には93匹という途方もない数に到達した。

それからは、年間百匹が毎年の目標となった。釣果はうなぎ昇りであったから、百匹などは時間の問題であろうとタカをくくっていた。しかし、そうはいかなかった。かりにも「幻の魚」と名づけられている天下のイトウであるから、それほど簡単ではなかった。私がルアーに掛けたイトウのバラシの率は3割を超えていたから、単純にいっても150匹はヒットさせないと、100匹は手にできないのであった。あくまでもきちんと釣り上げて、データを残す魚が100匹でなければならない。大物釣りよりも数釣りが必要であった。

 いくらイトウ釣りに習熟しても、大川で回遊を待ち受ける釣りでは、年間100匹には達しない。一回や二回の大釣りでは全然届かない。四季を通じてコンスタントに、着実に積み重ねる釣りが必要なのである。ある場所でイトウを待ち受けるよりは、釣り師がイトウの常駐する場所へ行くべきである。そうすれば確実に、数字の見通しが立つ。私はそう信じた。

 私が得意とする釣り場は、中小河川である。川幅は3mから10mくらいである。原則として川中を歩けることが条件となる。もちろん背丈がたたない深みもあるが、そういったところは高巻くしかない。こういう川をあちこちで探した。二万五千分の一の地図をもって、踏査したエリアを黄色のマーカーで塗りつぶしていく日々がつづいた。こういう釣りは、危険もあるが、一方では好奇心が満たされ、飽きることがない。つぎつぎと未知の風景、新たな課題が現れるからである。私は顕著な場所には、片っ端から名前を付けた。「密林」「Kの溝」「ボディコン」といった、他人が聞いてもさっぱり分からないような命名である。そういった名前を写真家の阿部と暗号のように言い交わした。

 中小河川の遡行をつづけていると、釣れるイトウは小さいものから大きいものまで、きわめて多彩である。私は「赤ちゃん」「小学生」「中学生」「高校生」「大人」などと呼んだが、10p級の「赤ちゃん」でも90p級の「壮年」でも同じようにうれしかった。大きさがどうであれ、イトウ釣りの難しさは同じであり、各世代が生息していることが、世代交代がうまくいっている証拠だから。いろんな世代のイトウが釣れたが、なぜか年間の平均は毎年体長50p内外に収まり、体長と匹数のグラフは正規分布を描いた。

 年間百匹には2000年に初めて到達し、この年は104匹を記録した。その後も、2002年には100匹、2003年には108匹を数えた。2004年には、最大魚100pと総数百匹の[100 100]をねらったが、総数は残念ながら99匹に終わった。そうこうしているうちに、生涯釣果がいつの間にか千匹に近づいてきたのである。

 20059月末には、ついに999匹に達した。あと1匹で目標達成である。しかし、その1匹は、阿部幹雄のテレビカメラの前で釣ることが決まっている。そのとき阿部は、中国の四川省にいた。101日、私は札幌で会議に出たあと、阿部を拾って夜更けに稚内へ帰ってきた。ふたりの都合で、千匹達成の日は、翌2日しかなかった。102日は、秋晴れであった。川はやや増水気味で、濁りもはいっていた。確実にイトウを手中に収めるとは言いきれない状況であった。気合をいれ、川に立ちこんだ。

そこは本流に左岸から枝沢が流れ込む場所で、枝沢の末端のボサの下にイトウがいる。ヤマメを模した深くもぐるルアーをそこへ放り込み、5mほど引いてきたとき、イトウが食いついた。かなりの大物で、竿が気持ちよく曲がった。ササ濁りの水中に陽が射し込み、イトウが反転するようすがよく見えた。

阿部は釣り師の後方から、右前方に移動して、釣り師と魚を交互に撮影した。私は、いつになく慎重に対処した。このイトウをバラすわけにはゆかない。ころあいを見計らって、右岸の砂浜にずりあげ、股の間にはさんだ。千匹達成の瞬間だ。体長70pの美しいメスだった。傷はどこにもなかった。

「いい魚で、千匹を達成できました。ありがとうございました」

カメラに向かって述べた。いろいろなコメントを用意していたのだが、全部忘れていた。イトウに、川に、自然に感謝するしかなかった。イトウをタモに収めてから、阿部のインタビューに答えた。静かな深い喜びに包まれて幸せだった。

1013日のHTBMIKIOジャーナル」で「イトウ1000匹を釣る」が放映された。阿部は私を「イトウ釣り士」と表現した。サムライなのだ。私がいつもやっている帽子をぬいでイトウや川におじぎをするしぐさが、何度も描かれていた。「感謝と畏敬の念」をもって自然に接する釣り士という、崇高なエンディングで番組が終わった。

高木知敬を「ずいぶん立派な釣り師」に仕立ててくれた阿部にも感謝した。