336話 晩秋の宗谷 

 

336話 晩秋の宗谷

 11月最初の週末、私は68歳のイトウ釣り新人Yを伴って、ハンドルを握っていた。その日なんとか彼に初イトウを釣らせたいと思っていた。

前日の強雨は上がり穏やかな曇となったが、西風が吹いていた。道道稚内幌延線をたどり、恵北のウインドファーム事業所を抜け、森林地帯をすぎると、牧草地が広がる。防風柵の設置で草地は見渡せないが、柵の切れ間に黒い動物が一瞬視野に入った。「ヒグマだ!」反射的に、車を停めた。

50mほど西側の草地を悠々とヒグマは歩いていた。立派な体格の成獣で、わりに肥っていた。農家が堆肥を撒いたばかりの草地に、鼻を地面におしつけるようにして餌を探していたが見つからないらしい。

車を降りて、柵下からカメラを構えたが、ちょっと遠い。だがこれ以上近づくのは危険だ。ヒグマはすぐにわれわれに気付き、ゆっくりと遠ざかる。溝をひとつくぐり抜けて、次の草地に移動するヒグマを、道沿いに追いかけた。するとヒグマは歩くスピードをあげ、駆けだして、川方向へ去っていった。

「すごい!初めてみた」とYは感動をかくせない。「走ると速いね」と応える。私にとって6回目の野生のヒグマ目撃だった。夜が明けて人目につく草地に入り込むほど危機管理ができていないヒグマは、よほど腹を減らしているようだ。この秋、道内ではヒグマの目撃や被害情報が激増している。比較的ヒグマの生息が少ないといわれる宗谷でも人里への侵入が日常化している。

 釣り場は、前日の泥濁りではなく、釣れそうな薄濁りに変わっていた。Yはさっそく釣り座に降りて、竿をふりはじめた。なかなか魚信はなかったが、一度だけ足元でアタリがあり、期待したが乗らなかった。居るはずなのにヒットに至らずもどかしい。

 場所を変え、広々とした川幅の開けたポイントに立った。支流の澄んだ水と本流の濁り水がまざって、まだら模様を作る。こういうところがねらい目だ。小魚の作る波紋は見られるが、大魚のライズはない。魚信もない。下流から飛来したカワウが、われわれを見て、さっと飛行方向を変える。遠くからブルドーザーのエンジン音が響く。

 こうして頑張ったが、初イトウは出ないで終わった。別の水系にオオワシを探しに行ったが、こちらも不在だった。陸の王者ヒグマ、空の王者オオワシ、川の王者イトウの三者を同日に見ることは非常に難しいが、一番難しいヒグマを見ただけでも満足すべきであった。

 その日の午後、南極OB会の第65次観測隊オンライン壮行会があった。全国各地の南極OBが現役隊員にエールを送るオンラインならではのエベントで、私も北海道支部を代表して壮途を激励した。

砕氷艦しらせは、まもなく横須賀を出港し、オーストラリアのフリーマントル港から観測隊が乗船し、一路南極に向かう。イトウ釣り新人Yもじつは南極OBである。その夜は、南稚内の酒場でんすけで、南極OB会稚内支部の懇親会を催した。元隊員のOは稚内市役所在籍時、ヒグマ対策の部署の長を務めていた。当然ながら宗谷のヒグマも話題になった。南極やらイトウ釣りやらヒグマやら私の大好きな事物がごちゃまぜになって、たいそう面白い会話が飛び交い、美酒に酔いしれた。