第333話 イトウ釣りとヒグマ |
|
2023年5月24日、道北の朱鞠内湖で釣り人が羆に襲われて死亡し、食害に遭ったという衝撃的な事故は、誰もが記憶しているに違いない。私も朱鞠内湖ではないが、道北のヒグマの生息する地域でイトウを追っているから、無関心ではいられない。 イトウ釣りをやると、河川の下流部の人里近くで竿を振る場合を除けば、常にヒグマとの遭遇を考慮に入れておかねばならない。実際に川に立つと分かるのだが、ヒグマの出没が懸念される場所ほどイトウとの遭遇が期待できるのだ。すなわち、イトウを本気で釣るには、ヒグマの居そうなところへ踏み込まなければならない。 1990年に北海道が春クマ駆除を廃止してからヒグマの数は増える一方だという。私がイトウ釣りをはじめたのが、1989年だから、ヒグマの生息数がいちばん少ない時期だったことになる。私はアウトドアライフが好きで、山や川に限らず、原野でも湿原でも踏み込んで釣りをした。40歳という遅咲きのイトウ釣り入門ではあったが、こういう背景があったおかげで、比較的短時間でイトウ釣りの核心部に到達し、釣果を得ることができた。 私は学生時代の登山中に、すでに2度、日高山脈でヒグマと遭遇していた。一度は、七つ沼カールでキャンプ中の夜に、テントの周りをヒグマが徘徊するという危機的な状況だったにもかかわらず、「ヒグマは人を襲わない」と信じ込んでのんきに構えていたのである。いま顧みると、ヒグマの知識をもたず、身を守る道具も一切なく、襲われなかったのは、幸運だっただけだ。その後の一度は、キャンプの幕営のとき、ヒグマが居ることを確認したので、急いで撤収し、川を下ってテント地を変えた。 いまでは私もヒグマとの突然の遭遇が怖い。とくに朱鞠内湖の事故のあとは、たいていヒグマスプレーを腰ベルトに下げている。宗谷でも「こんなところにヒグマが出るわけがない」というところで、ヒグマの目撃情報が出たりする。2020年実際に原野の中河川を挟んでヒグマと15mほどの至近距離でにらみ合ったとき、私はスプレーなしの丸腰であった。ヒグマが私を襲う気になれば、10秒以内にやられたことだろう。あのとき私が走って逃げたり、突飛な行動をとっていたらヒグマを刺激した可能性もある。すぐさま一眼レフカメラを取り出して撮影をはじめたが、その行動はほかに落ち着いて集中してやれることがなかったからだ。ヒグマは私に興味をもたず、くるりと背を向けて去っていった。 ヒグマに遭遇しない方法があるとしたら、ヒグマのテリトリーに入らないことが一番であるが、それではイトウ釣りにはならない。イトウのポイントが、ヒグマが頻繁に往来する場所かどうかは分からない。ただしふつうは、山や原野の中央部に近いほどヒグマとの接触が多いが、サケマスの遡上産卵や飼料用トウモロコシの実りなどヒグマの餌が多い時期は、そういった場所が一番危ない。地元の農家などが一番よくご存じで、「うちの牧場には、いつもやってくるヒグマがいるが、うちのは悪さしない」などと教えてくれる。 大河の支流合流部や、林道の奥にときどき「ヒグマ出没中」の看板を見ることがある。それはこけおどしの看板ではない。そこは過去頻回にヒグマの姿や痕跡が見られた場所であるから、そこで釣りをすることは避けた方が無難である。 朝晩はヒグマの行動の時間帯である。したがって、朝夕まずめ時は基本的に危険である。したがって、そういった場所を狙うには、人の存在をヒグマに知らせる音声、鈴、笛、爆竹などがあったほうがよい。車を停め、川岸まで急坂を下って釣りをしていたら、車より手前にヒグマが出たという笑えない事例もある。前門の大河、後門のヒグマでは逃げ場がない。 私は歳をとり、脚力も弱ってきたので、最近は車から遥かに遠い釣り場に行くことはない。それでも釣りを終え、車に戻るとホッと安堵する。血気盛んな若者や、探検好きの釣り人が、ヒグマの被害に遭わないことを祈る。 |