33話  嵐のライズ


 「一日中イトウが跳ね回っている場所を見つけました」

カヌーで湿原の撮影をしたばかりの阿部幹雄がとんでもない情報をもたらした。そんなところを見逃すわけにはいかない。どうせ湿原のど真ん中なのだろうから、自分の足で到達するのは難しいだろう。私は、近ごろあまり使っていないインフレータブルのカヌーを膨らましてみて、その日に備えることにした。

 「ものすごい数ですよ。嵐のライズとはあのことです」

 イトウがそんなに群れているのは変だとおもうのだが、私は見ていないのだから、なんともいえない。阿部が宗谷へ来た週末、そのイトウの楽園に突入することになった。車を停め、偵察に向かった。クマイササのヤブこぎをすること30分、湖が見えてきた。坂を下って、ヨシ原をかき分け、水際の湿地帯を歩いて、ようやく湖に到達した。見れば、鹿が湖を歩いて横断しているではないか。

 「鹿が渡れる水位なら、人も渡れる」

 われわれはカヌーは必要なく、二本の足で問題のポイントに到達できると判断した。そこで、いちど車に引き上げ、腹ごしらえをした。カヌーが不要なら荷物はうんとすくなくなる。私は釣り道具だけでいいし、阿部は写真機材だけでいい。動きは速いし、疲れもすくない。湖畔に着くと、湖水のなかに足を踏み出した。泥底なのだが、びっしりと糸状の藻が生えていて、ほとんどぬからない。踝から膝下くらいの深度で、ずっと対岸に渡っていける。心配したドン深の所など皆無だった。

対岸にせりあがって、コケのうえの鹿の足跡を見ておどろいた。おそるべき数の足跡である。鹿道を忠実にたどる。そこが一番安全なのである。鹿は体重が200kgあるが、四つ足の総面積は、人のそれより小さい。だから、泥濘であっても鹿が沈まなければ、人は沈まない。動物の行動は、人の行動のよい指標になる。源義経だって、「獣は駆け下る」と聞いた一の谷を、平家の陣に向け、騎馬で駆け下ったではないか。

 対岸に渡りきると、ヨシが束になって生えているわきを縫うように歩いていった。渇水状態なので、ヨシの茎がまるごと露出している。やがて地面がしっかりと乾いてきて、広い扇状地にでた。扇状地のど真ん中を一本の清流が流れている。阿部は先日このあたりでキャンプしたそうだ。

 野鳥がじつに多い。夏だというのにオオハクチョウが数羽もいた。ダイサギやアオサギがいた。カモ類は編隊して飛行していた。阿部によるとシベリアに帰還しないでこの湖で避暑するオオワシやオジロワシもいるそうだ。バードウオッチャーには天国だろう。

 「さて魚の嵐のライズはどこだろう」

 悩むことはなかった。真昼間だというのにもう始まっていたのだ。

波ひとつない鏡の湖面に、モコモコとうねりが生じたとおもったら、いちなり魚が背びれ、尾びれを露出して、スーッと泳ぎはじめた。確かにでかい魚だ。それがあっちでもこっちでも起きる。方向転換の際、バシャと水柱が立ち上がる。跳躍する魚もいる。

 「なんだあ?なにをやっているのだ」

 測ってみると水温が26℃もある。そんな高温の湯水のような浅瀬を、イトウが群泳するものだろうか。

 「確かめるしかない」

 私はさっそくラインに大型のルアーを結んで、魚影に向けてキャストした。しかし、すぐにルアーに藻がまとわりついて団子状態になる。まるでライギョ釣りのような、体裁のわるい釣りである。それでも何度かやっているうちに、魚がヒットして、ものすごい勢いで水面を滑っていき、すぐにバレた。スレがかりしたのだ。ルアーを回収して仰天した。フックに残ったウロコは、直径が20oもある。イトウなら2mの怪物だろう。しかし一部が着色してどう見てもイトウのウロコではない。コイ科の魚に違いない。イトウでないのはちょっとがっかりだが、こうなると正体を知りたい。私は約1時間、ルアーをとっかえひっかえ魚の群れに投げつけたが、ルアーを口でくわえてくれる魚はいなかったし、スレでかかってもすぐに外れてしまった。

ふと河原を振り返ると、魚の頭部と背骨がつながった骨標本が転がっていた。猛禽類の餌食になったのか、浅瀬に座礁して死んだのか、完全に骨になっていた。頭部は、幅広でわりにごつく、オチョボ口である。体長は64pで大型だ。

 「こいつが正体か」

 阿部はしきりに写真を撮った。骨格写真とウロコで魚の先生・小宮山英重さんに鑑定してもらえば、正体はつかめるだろう。

 「嵐のライズの主は、コイの群れだったのだろう」

 私ははやばやと結論づけた。コイが餌を漁っていたのか、それともコイの産卵行動なのか。それでも湖のはるか沖合いにドボンと跳ねた大型魚は、コイとはちがうイトウだろうと想像した。われわれは、この扇状地で3時間ほど過ごし、流入河川を遡行してもみた。まったく人の気配のない風景は、アラスカかカナダといっても疑われないであろう。ヒグマだって森のなかには何頭かいるに違いない。こんな自然の宝庫が身近なところにあったことに驚きと喜びを隠せない。

 「ここは他人には封印ですね」

 「うん、もうすこし探り調べてからでないと公表はできないね」

 夕暮れが迫るころ、われわれは後ろ髪を引かれながら扇状地をあとにした。カヌーなどの道具を使わないで湿原のなかを自由にあるける知識と経験をようやく身につけはじめたことに満足しながら、広い湖のなかを歩いていった。