320話 春羆 

 

 2022年のことしも春が来た。この冬の気象は思いの外厳しく、宗谷では風雪が荒れ、大量の積雪をもたらした。それでも春の日射は確実に雪氷を解かしていった。

 43日は私の誕生日である。なにかいいことがありそうな気がしていた。海岸道路232号線から遠別中川線へと曲がった。交通量は極端に少ない。途中にあった清川の学校も閉校になった。集落というものはない。

 ウッツ川源流部に掛かる橋に差し掛かると、橋の真ん中に二本足で立っている動物がいた。ヒグマであった。私は思わず「あっ」と声を上げた。ヒグマはすぐ車に気付いて、すばやく上流方向へと逃げた。コロコロと肥っている割には速い。橋をやりすごすと、ガードレールを身軽に乗り越え、雪の斜面を登りはじめた。四肢のキック力が強く、ひと蹴りごとにグイグイと登った。あのスピードを見ると、ヒグマに遭遇したときに走って逃げてもすぐに追いつかれると確信した。

もちろん貴重な野生動物との遭遇であるから、いつも助手席に置いてあるオリンパスを瞬時に構えた。オートフォーカスであるから、ピント合わせは要らないが、運転しながら動くヒグマを追うのは難しい。ヒグマは小さな尾根をよじ登り、灌木のまばらなテラスで一休みして、振り返りざまこちらをにらんだ。被写体の顔が見えるシャッターチャンスである。構図など考えないで連写した。ヒグマは眼の周りの毛色が濃く、顔立ちがいかにも幼い。まるでパンダのように愛くるしい。身体つきもまだ小さく、おそらく3歳くらいで、母離れして間もない個体であろう。静止したのは23秒で、ヒグマはもう安全と判断したのか、悠然と背を見せてゆっくりと林の中に立ち去った。

道北に長く暮らしていても、ヒグマとの遭遇がそうそうあるものではない。1989年から2022年までに3回だけであった。原野で無防備にて遭遇し肝を冷やしたのはただの1回で、あとの2回は車運転中であった。車に守られている状況では、危機意識はまったくない。

車に取り付けたドライブレコーダーには道路を逃走中のヒグマはしっかり動画記録されていたが、山の斜面を駆けあがられるともう追えない。360度カメラでもないと無理なのだ。

近年、春羆の駆除がないため、ヒグマの頭数が増えて、人里での出没と、人の被害が増えていると報道されている。膨張する都会の周辺部には、野生動物が暮らしている。一般市民がヒグマと同居することは困難なので、やはり人里に出没するヒグマは駆除して安全を図るべきであることは明白だ。

一方、宗谷など人口密度の低い地方では、ヒグマとの遭遇は人のアウトドアへの侵入による事態がほとんどだ。もともとそこにいたヒグマに罪はない。山や原野に入る人は、それなりの知識と自衛手段を持つことが必要である。私は羆鈴、ベアスプレー、ときには爆竹やナタも持参する。もちろんヒグマに襲われた経験はないが、丸腰で危険地帯を歩く勇気はない。

 ところで、今回撮影した若いヒグマの見返り写真は、釣り仲間には人気である。パソコンの壁紙に採用されたのが私も含めて4台である。みなさん、「可愛い」と言ってくれる。この春羆がやすらかな一生を送ることを祈る。