31話  草島清作名人


 イトウ釣りの名人については、いくつもの伝説のような逸話がある。釣ったイトウの数、超大物など現在ではとうてい考えられないような数字が残っている。イトウだけではなく、イトウ釣り師自体がすでに伝説化されている。私自身もイトウを追いかけ、イトウの本を書くにあたって、歴代のイトウ釣り名人の資料を集めたことがある。私は名人たちと会って話が聞きたかったし、できれば名人の秘伝の釣技をこの目で見たいとおもった。

 ここでは、私の尊敬するひとりのイトウ釣り名人を紹介したい。私がまだ学生でイトウ釣りなど夢のまた夢とおもっていた30数年前ころ、道南の尻別川を舞台に大物イトウを数多く釣り、のちに「伝説のイトウ釣り師」と呼ばれるようになった草島清作氏である。現在とはイトウの資源量もちがい、川の様相もまったく異なるとはいえ、最大157p・48kgの怪物をしとめ、メーターオーバーのイトウを生涯4000匹も釣ったという実績は想像を絶する。いまはイトウが絶滅に瀕している尻別川にかつてのようなイトウを復活させようというオビラメの会の会長である。

 草島名人が年に一度、倶知安を離れて、道北にイトウを釣りにこられるという情報を得て、いちど会ってみたいとおもっていた。その希望が実現したのは、相棒の阿部幹雄のおかげである。阿部は尻別川のイトウの人工授精の取材を通じて、草島名人と面識があった。20056月下旬、草島名人が、オビラメの会の会員ひとりを伴って、道北に年一回のイトウ釣りに来られた。写真家の阿部幹雄が、取材も兼ねて、同行していた。絶好の機会なので、私も稚内から駆けつけることにした。朝早くとある温泉で合流した。私のような若輩者に、帽子をとって挨拶をされる。謙虚な方だ。草島名人は、数々の超巨大イトウと闘ってこられたが、いまは白髪で思いのほか小柄なのである。

 「朝飯をいっしょに食べましょう」

 とのお誘いで、ホテルの食堂でさっそくイトウ談義となった。

 「いいですよ、この川は。むかしの尻別川の雰囲気です。この川には180pがいますね」

 名人は、遠い昔を懐かしむように目を細めて道北の大川をほめたたえた。

 「かつての尻別川には、電柱が立ったまま隠れるほどの深い淵が、たくさんありました。そこには、かならずメーターを超えるオビラメがいたもんです。そこで1匹釣ると、かならずあらたな1匹がそこに入ってく る」

 イトウが無尽蔵にいたいい時代だったのだ。

 「尻別川のイトウ釣り師には、師匠と弟子という関係があり、師匠は、釣り技だけではなく、釣りのマナーも教えたものです」

 「道具はなかなか手に入らないので、手作りのものもたくさんありました。リールは缶詰の空き缶を利用して作ったし、ルアーは、それぞれがスプーンに鉛を仕込んで、スピンナーを作りました。良助べらもそのひ とつです」

 「わたしの最大のイトウは、157pで48kgありましたがもっともっとでかいのを掛けたこともあります」

 「その当時の尻別川では、川を上流下流方向に移動できないので、いちいち道路に戻ってから、釣り場に入り直したものです。だから、狭い釣り座で、大物と決着をつけなければならない。上流下流に走られないよ うにするには、釣り師を中心に、イトウに円を描かせることが必要でした。円を二回くらい描かせると、イ トウは疲れて水面に浮いてきました。その技術を『円月殺法』と名づけました」

 草島名人の円月殺法を是非とも見たい。私も草島名人の必殺の釣り技の数々を実際に目撃して、覚えたいとおもった。コーヒーを何杯もおかわりして、話を聞いているうちに、2時間もたっていた。イトウ談義も聞きたいが、実釣も見たい。そこで、近くの大きな中州のある平瀬に名人を案内することにした。川は静かにとうとうと流れている。

 「わたしはこういう川に立ちこんで釣るのが好きなんです」

名人はさっそく道具の準備をはじめた。竿は15ftはあろうかという長大な振り出し竿で、おそらく海の磯竿だろう。バットは太く、けっこう重い。イトウ釣り用に改良してあるのだろう。黄色のラインをガイドにくぐらせ、結んだルアーは、なんの変哲もないスプーンであった。

 「ミャク釣りとフカセ釣りをやってみます」

川に膝まで立ちこんだ名人が、竿をひと振りすると、ヒューンと心地よい音がして、ルアーが対岸近くまで高い飛行曲線を描いて飛んでいった。ルアーが着水すると、竿を天高く立て、リールのベールは立てたままで、ラインをフリーにして流れに乗せる。左手をラインに添えて、魚信に備えていた。

 「ルアーを流れの長軸方向に自由に泳がすのです。ミャク釣りです。こうしているうちにガンときます」

ある程度ラインが下流方向へでたところで、名人は、竿を寝かせ、手前側に少し引いた。おそらくルアーは方向を変え、流れと直角に動くはずだ。これがフカセ釣りか。ルアーの位置が、自分の立つ流れの下流に移動したところで、名人はベールを戻し、ルアーを逆引きしはじめた。なるほど名人の釣りはほとんどルアーに小細工をせず、フリーに水面下を流しているのか。私には目からうろこのような釣法であった。さっそく、私も真似てみたが、私のルアーはディープシンキングのプラグだったものだから、あっという間に根がかりした。

 「ははーん、この技は、プラグには向かない」ということが分かった。あまり沈まず、静かに流すことによりかえっておもしろい動きをするのはスプーンだろうとおもった。しかし、これはすぐさま実釣に応用でき るものではなく、私の竿や釣り方に適したアレンジが必要であるとおもった。名人は、ときどき川から中州に上がって、流木に腰掛け、うまそうに煙草をふかした。私も横に座って、下流のうっそうとした河畔林を眺めながら、名人のイトウ話を聞いた。時おりカッコウやウグイスのさえずりが聞こえてきた。風はなく、初夏の日差しがやわらかい影をつくった。さわやかないい時間だった。

草島名人はことし76歳である。私よりちょうど20歳先輩である。20年後に私は、このようなイトウ釣りができるだろうか。

 「水源の森を整備することによってよい水を流し、よい川を育てることによって、よい魚を育てたいものです。こういうよい川は大事にしなければなりません」

 「イトウのことをいちばんよく知っているのは、釣り人です。釣り人が一致協力することによって、イトウはかならず復活します」

伝説の釣り師は、微笑みながら、静かな口調で語ってくれた。

  その日は昼ごろには竿を収めた。われわれは、近くの食堂で昼食をともにし、午後には倶知安に帰る草島名人を見送った。釣り談義と実釣を含めても6時間ほどのひとときであったが、私にとっては、重い満ち足りた時間であった。

 「草島名人からいろいろ学んだ」

私は深く納得して、帰路についた。