301話 釣れないとき 

 

 イトウが釣れないとき私はどうしているか記そう。

 釣れないといっても、まったく魚信も気配もない場合と、魚信やバラシはあるのに運がなくて釣れない場合とはまったく異なる。

 前者の場合、これは忍耐が試される。次の一投で来るか、次の釣り場で来るかなどとは考えない。もっとおおらかに、あるいはまるで別の想いに浸りながら、延々とキャストをつづける。

大河など目標のない広い水面に向かっていると、案外同じ方向、同じパターンのキャストに陥る。そこで上流方向から0度、45度、90度、135度、180度などと方向を変えながらやる。もちろんルアーを変更したり、曳き方を変更したりする。

また野鳥のさえずりに耳を傾け、雲の形をあれこれ吟味し、対岸のたわわな緑をめでる。

退屈すると昔の楽しいことを思い出したり、歌をうたってみたり、ポケットに入っているスルメや帆立の貝柱をかじってみたりする。それでもたいていは、なんの魚信もなしで終わる。それを嘆いてはいけない。結果を性急に求めてはいけない。川岸に立って竿をふり、雄大な景観を眺め、北の爽やかな風に吹かれていることをこの世の幸せと感じるべきである。イトウ釣りとはそういうものなのだ。

 しかし後者の場合、緊張感を切らさず釣りをつづけるしかない。いつかはかならず運が向いてくる。イトウはすぐ近くにいて、次の一投でヒットすると身構える必要がある。釣りとは不思議なもので、次々にヒットするのに、すべてバラシで終わったり、隣の釣り人は釣れているのに、自分にはさっぱりだったり、今度こそと思い切り合わせを入れたら、根掛かりだったりする。しかし運というものは、一瞬で劇的に変わる。諦めかけたところに、ドカーンと大魚が食いついたりする。地獄と天国は案外隣どうしなのだ。したがって、キャストは緊張を持続しておかなければならない。

 釣りが不調のときは、釣り場だけではなく、自宅にいても気が晴れない。そこで、昔のデータ調べ始める。なにしろ釣行記録が山のようにある。各年毎に、釣れたイトウに第1号から番号がふってあり、体長と体重はもとより、それがいつどこで釣れたか、その時の水温、気温、天気、川の水位、ルアーの種類おまけにそのときのまわりの状況まで記載されている。したがって、「釣れないとき」どう局面を打開したかが分かるようになっている。自分のデータだから非常に参考になる。むかしの記録を読み返し、そのときの状況を思い出し、いまどう対処すればいいか検討を加えるのである。もちろん直近の他の釣り人の釣果も参考にはするが、それに踊らされることはない。釣り人は各人それぞれ釣り場や釣法も異なるからである。

 私は27年間以上にわたってイトウ釣りをやってきた。毎年どうしてこんなに釣れないのだろうと嘆きたくなる日々がやってくる。それでも運が廻ってきて、調子があがってくると、結果がすこしずつ残せるようになる。年の終わりにその年のイトウの集計をしてみると、毎年そんなに釣果の違いはないのだ。毎年の運も不運もならせばだいたい均等に来るのだ。

釣れないときには、いろいろ悩んだ末に、自然体で川に立ち、無心で竿を振っているうちに、局面を打開する1匹がドーンと食いつくのである。