290話 指標河川 

 

 稚内からほど近く、私が日本海側河川のイトウの産卵状況について指標にしている小沢がある。すなわちこの沢でイトウの産卵遡上が始まると、流域全体が産卵モードになり、親魚の姿が消えると産卵終了という目安になる。

 429日、ことしも「そろそろかな」と思いながら、足を運んだ。例年と違い、あたりに残雪がまったくない。牧草地も乾いて、じくじくした湿地がない。沢の水位はけっこうあるものの、雪代の濁りがなく、透明である。河畔にはフキノトウの群落で、黄緑の絨毯ができている。この状態であれば、イトウウオッチングのためにウエーダーは不要で、半長靴で十分である。

河川の産卵域は1㎞くらいある。屈曲部やその前後に毎年産卵床が掘られる。立ち木が少ないので、観察者は身を隠す場所がほとんどない。したがって、イトウからも丸見えなのである。

 川岸から5mほど離れて川を注視しながら歩くと、一瞬鮮烈な赤が目に飛び込んできた。その瞬間に身を縮ませた。明らかに婚姻色のオスイトウがいるのだ。ほふく前進して、1本の河畔木の後ろに回り込んだ。オスは見事な赤に鰓ぶたから尾びれまで染まっていた。体長90㎝の立派な体格をしている。谷地ダモの木の陰にかくれて、撮影した。相方のメスはすぐ上流の渕に隠れていて、出てこない。この場はひとまず寝かしておくことにする。

 その場を離れて、観察行をつづけた。タタタと音がするので見ると、エゾシカが2頭駆けていく。後ろ脚のパワーが強く、尻がポコポコと上下する。

 先を急ぐ。川の屈曲部は要注意である。瀬があるからだ。瀬にはたいてい渕もともなう。瀬頭にイトウが産卵床を掘ることが多い。

屈曲部を2つ通り過ぎ、「もう産卵ペアはいないだろうか」と思いながら歩を進めたとき、信じがたい光景を目にした。5×5mほどの小渕に6匹のイトウがひしめき合っているのだ。オスもいるがメスもいる。メス2匹の太いメーター級が堂々と定位して、その周りを80㎝クラスのオスがウロウロしているが、相手にされていない。ときおり50㎝の未熟なオスがメスに近づくと、別のオスがあっという間に追い払う。すでに産卵が終わったのか、あるいはこれからペアを作って産卵床を掘るのか分からなかった。いずれにしても、源流にほど近い小沢にみごとな巨大魚が遡上しているのは、圧巻の光景で、産卵観察の大きな醍醐味である。

私は2台のカメラをたすきに掛け、1台はスチール写真、もう1台は動画を撮ることにしている。いずれも偏光フィルターを装着している。渕の底に沈んだイトウをスチール写真で焦点を合わすのはけっこう難しいが、動画であれば自動的に焦点が合う。なるべく近くから撮影したいので、川岸ににじり寄ると、私の影がイトウたちのすぐ下流に写り込んでしまうが、それでも彼らは逃げたりしない。なにかに熱中しているのだろうか。

イトウの小渕には1時間ほどいたが、新たなる展開がないので、その場を去ることにした。本当はメーター級メスと80㎝クラスのオスが掘り行動をやってほしいのだが、いつ始まるとも知れない。プロのカメラマンであれば、じっと待つのだろうが、私にはその忍耐がない。

翌日に同じ川の様子を見にいったところ、ふつうのペアはいたものの、6匹のイトウの小渕はもぬけの殻であった。