第289話 2019年春 |
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4月の声を聴くと、イトウ釣り仲間から「ことしの川の状況はどう?」といった問い合わせが届き、その回答のため自分の眼で確認しなければならない。中旬になると、居ても立っても居られない気持ちになり、ことしもまだ早いと思いながら産卵河川の偵察に出かけた。 4月になると北国稚内では明るくなる時刻がどんどん早くなる。ことし古希の私の起床もどんどん早くなり、3時になると自動的に眼が醒めてしまう。さすがにまだ暗いが、習慣にしているランを済ませた4時ころになると、もう薄明である。5時には車を始動して、いざ川へと向かう。 この時季の楽しみのひとつは、朝日を浴びた白雪の利尻山の神々しい姿である。稜と谷を際立たせる陰影は、早朝にしか見られない。利尻山の有名無名の展望台はいくつかあるが、私は「庄内の丘」と呼んでいる地点で、上サロベツ原野越しに見える山が一番好きで、かならずここで山を眺め撮影する。ときおり前景にハクチョウやマガンの編隊が通過するともう最高だ。 さて国道を南下して、大河の流域にさしかかる。明らかに鳥の数が増える。その中には特に見栄えのする大型の野鳥がいる。オオワシとオジロワシだ。北帰行の前に彼らが集結する場所がある。それが三日月湖の周辺であり、湖がまだ結氷していると、その上に鷲の群れが降り立っているのだ。こんな風景は、そう簡単に見られるものではなく、必然的にカメラを抱えてウロウロするが、相手もさすがに安全な距離を測っていて、無警戒に近づくと、あっという間に舞い上がって去っていく。 利尻山と鷲を見てもうすでに満足なのだが、これから本命のイトウを探すことになる。林道を行くと、路肩にフキノトウが顔を出している。残雪がちらほら現れる。さすがに他車はまだ来ていない。わだちもない。 川のほとりで車を停め、釣りの戦闘服に着替えた。産卵観察だから、竿やタモの代わりにカメラを肩に掛け、いよいよイトウウオッチングに出発だ。フィッシングベストのどのポケットになにが入っているのかひとつずつチェックする。4か月ぶりの点検だ。羆スプレーと熊鈴をセットしたベルトも腰に巻く。スプレーがちゃんと充填されていることも確かめる。 こうしてウオッチングを開始した。水温は6℃で、雪代増水はなく、流れは透明である。イトウが上る雰囲気ではない。隣の川は雪解けの濁りはあるが、増水していない。まだ産卵には早すぎた。こうして観察空振りの日が、4回続いた。 4月20日になって、早朝に川を訪れた。もうあたりに雪がまったくない。気温は3℃と肌寒いが、なんとなく「来ている」気がした。いつものルートで川を辿ると、いた! 90㎝の真っ赤に染まったオスであった。単独で遡上して、上流でメスを待っているのだろう。これで産卵期が始まったことを確認してうれしかった。 翌21日、稚内近郊では氷点下6℃の冷え込みがあった。朝日を浴びた利尻山がきれいに鎮座している。さっそく産卵河川に急行した。牧草地に霜が降りていた。車を停め、身支度を整えて、上流を目指す。耳を澄ますと、ドスドスと聴こえるような派手な水音がした。もう間違いない。大きなイトウが産卵床を掘るか埋める水音だ。見ると、90㎝のオスと100㎝メスの重量級のペア並んでいた。どちらも立派な魚体でほれぼれする。オスはたぶん前日に確認した個体だ。産卵床が直径1mはあろうかという大きさで、十分に深い。ペアの動きは緩慢で、おそらくもう産卵放精は終わって、埋め戻しにかかっている様子であった。撮影していると、メスがスーッと産卵床を離れ、ひとり上流に泳ぎさった。オスもその後を追うように離れた。 こうしてことしもイトウの産卵を見届け、これからの至福のシーズンを想って、豊かな気分に浸ったのである。 |