283話 大村の快挙 

 

 今年もイトウ産卵が終わって、5月第二週からホームリバーでの釣りを開始した。平日の早朝5時に私が釣り場に着くと、イトウの会の大村の車が停まっていた。彼はことし3月に仕事を定年退職したばかりで、第二の職業人生のスタートにはまだ間があった。いまのところ毎日が日曜日のはずだ。

 私が自分の釣り座に着いて、準備を始めると、200m下流で竿を振る大村の姿が見えた。他には釣り人の姿はない。空は曇り、川はやや水位が低く、水温は8.9℃で、イトウのライズやボイルは見えなかった。

 「まだ釣りにはちょっと早すぎるか」と思いながらキャストを繰り返していると、離れた大村の動きがどこか変だった。竿を両手で抱えたまま上流へ下流へとウロウロしている。私が注視すると、なんとザンブと水柱が上がったではないか。「あ、掛けた!」と分かった。

 「あいつ俺より先に掛けた。どんなイトウなのか見てやろう。」私は竿と大タモを抱えて、走った。ヨシ原を駆けて大村に近づくと、まだファイト中であった。「なんだ、やけにモタついている。仕方ない、俺がすくってやろう」とよけいなお世話をしようと、駆け寄ったところ、彼はなんとか自力で掬い取った。

 大きくたわんだタモを見ると、結構な大物で、なんと幅広の大イトウである。メーターはないが、相当重いことは間違いない。

「重くて、なかなか寄せることができませんでした」彼は、興奮して相好を崩している。まだシーズン当初で、大物が来るとは想定していなかったらしく、フィッシングベストのポケットにメジャーを探している。カメラは車に置いてきたという。

「なんだよ、手がかかるなあ」と説教口調で、私が手を出すことになった。計ると、体長は94㎝、体重はちょうど10㎏の大物である。カメラを車に取りに行っている暇はないので、私のカメラで撮影する。

 大村はシャイな人で、撮影するぞというとなぜか下を向くのである。「上を向け。魚じゃなくて、君の顔をカメラの方を向けて」と怒鳴りながら、抱っこ写真を何枚も撮影した。

 この時期に94㎝で10㎏は肥満である。ふつう100㎝でようやく10㎏に達する。おそらく産卵後に海や下流部で餌魚を荒食いして、胃腸にはパンパンに小魚が詰まっているに違いない。

 リリースが済んで、水中から陸に上がった大村は、ぐしょ濡れでカタカタ震えている。寒さと興奮で震えが収まらない。その震える手を握手して、彼の今季初の大釣果を祝福した。

 ここ23年大村が大物を釣ったとは聞いていなかった。おそらく、そこまでイトウ釣りに熱中するだけの余裕がなかったのだろう。退職したとたんに、大物が出た。これもまた人生なのだ。

 日本人は真面目な人が多くて、職業人生をまっとうするまで、大好きな趣味を封印したりする。しかし定年退職するころには、心身ともに衰えてきて、アウトドアライフなどは壮健で存分にはできないことが多い。私は、やりたいことは今すぐにやるというのがモットーなので、職業人生真っただ中でも趣味も遊びも同時進行してきた。他人があれこれ言っても、聞く耳を持たない。好きなことに熱中すれば、睡眠時間などを減らしてもこたえない。仕事に疲れていても、竿を持つと別のエネルギーが噴出する。

 イトウ釣り師には、仕事や家庭といった大事なことをないがしろにする人もいる。私も多少そうした素質をもっている。「それがどうした」とうそぶく神経でないと、こんな困難だが、魅力的な釣りを長くつづけてはいられない。