275話 ボイル  


 釣り師が下流部で釣りを始めるのは、イトウが小魚を狩るシーズンである。産卵で体力を落としたイトウが、下流部で餌魚を荒食いしまくる。イトウは猛々しいが、それを目撃する釣り師も高揚する。イトウの会ホームリバーでいえば520日ころからだ。

そのころ川にはシラウオの群れが遡上する。体長7㎝ほどのシラウオは、身体が半透明なので、見つけづらいが、偏光眼鏡で目をこらすと、それこそ無数に泳いでいる。あまりにも数が多いのでキャストしたルアーのフックに引っかかってくる。巨大なイトウの餌にしては小さすぎるようだが、大量に食えばそれなりに食欲は満たされるのだろう。

4時から6時ころの風のない日に川へ行くと、目の届く範囲で、岸辺に派手な水柱が立つのを目撃することがある。われわれはこの現象をボイルと呼んでいる。ボイルは「沸騰する」という意味に加えて「強者が弱者を飲み込む」という意味もある。これらの場所はいつも決まっている。イトウが餌魚を襲うとき、浅場に追い込んで、一挙に大量に飲み込もうとするので、深さ20㎝ほどのワンドがよく使われる。われわれイトウ釣り師がイトウを狙う深場とは対照的である。

なにしろイトウが「ここにいるぞ」と示しているのだから、釣り師はそうした場所に殺到するのだが、狩りの現場でイトウを釣るのは至難だ。なぜかというとボイル現場には、明確なターゲットの餌魚がいて、イトウはそれを食うのに夢中になっているから、他の怪しい疑似餌などには見向きもしないことが多い。逃げ惑う餌魚のなかで、全然逃げない疑似餌を不思議に思うイトウもいるであろう。

イトウが夢中になっている餌魚はだいたいがルアーよりははるかに小さいので、ルアーボックスを探しても等身大のルアーはない。たべごろの大きさに近いプラグなどは、軽量でなかなか臨機応変に投射できない。私はこういう際はバイブレーションをもっぱら使うことにしている。わりに小さ目で重量があり、的確にビュウと投じることができる。それでもボイルの現場でヒットさせたことはほとんどない。

そうはいっても広大な釣り場で、イトウが確実に居ることが分かっている場所を捨ててはおけない。私が狙うのは、ひとつはボイルの周辺である。10メートルから20メートル離れた周辺部をしつこく探るのである。早くルアーを見つけてくれよと念じながら。もうひとつは、ボイルが起きる場所が2か所あるのであれば、その中間に位置するのである。イトウが狩り場を移動する途中の気の緩んだときを狙うのだ。これは私が得意にする方法で、ボイルに一喜一憂しないで釣り人のペースでキャスティングを続けられる利点がある。

ホームリバーを回遊するイトウの数はたかが知れている。あっちでもこっちでもボイルするイトウがじつは1匹だけかもしれない。ボイルなど無視して、自分の決めた釣り場で黙々と機械的にキャストを反復するのが最も実利があるかもしれない。

対岸で派手にボイルするイトウに気を取られて、わざわざ車を動かして対岸に移動したら、その時はいままで立っていた釣り場にボイルが移っていたという笑い話もある。

川の水位がたっぷりあり、水温が15℃前後、下げ潮で水流があり、泡や泥煙が流れてくる日が、イトウが最もヒットする可能性が高いと私は考えている。そんな日、川にボイルの水柱は立たず、妙にシンと静まりかえっているものだ。