256話  最後の荒瀬


 川釣りでは、基本的に雨後の増水が徐々に減水してくる期間がもっとも釣れる。なぜなら、魚にとって水域は宇宙そのものであり、増水は宇宙が広大に広がることで、魚は活性化する。下流にいた魚は上流をめざし、海にいた遡上魚はいっせいに遡上する。さすがに増水段階では流速が増して、定位するにも大変だろうが、減水してくると餌をさがす余裕が生まれるのだろう。

 7月中旬、宗谷にも大雨が降った。土砂降りではなく、静かにしかし切れ目なく雨は落ちた。川は氾濫注意水位をあっけなく超え、氾濫危険水位にも届くまで増水した。だがそこで踏みとどまり、翌日から引きはじめた。私は毎日3回も4回も「河川情報」を開いては、川の状況を推測した。過去の膨大なデータから、水位とその場の風景が明確に分かるようになったから、一番釣れる水位を待つことができるようになった。

 その日、私のホームリバーの中流の瀬にでかけた。なんの変哲もない酪農風景の中を川は流れている。牧草地を渡り、自分専用の踏み跡道をたどって川に到達した。薄茶色の最高のササ濁りの水だ。水温は12℃しかない。目指すは支流が注ぐ合流部の瀬頭である。大雨増水の3日後くらいに大物が居つくのだ。瀬の激流に定位することはできないが、本流と支流の水が混じりあうあたりに微妙に穏やかなたるみがあるのだろう。そこで餌を待ち受けているにちがいない。

 私はふつうの市販のルアーのフックだけを替えて使っている。よく使うのが、DDPanishである。もう古いプラグであるが、川床をなめるように泳ぐその動きは秀逸で、イトウにはきわめて有効だ。そのルアーをラインに結んで、下流部の平瀬から順繰りに釣りあがっていく。終点が合流部の荒瀬である。陸からキャストすると、探れる範囲が少なく、死角が生じるので、川の真ん中を歩いてすこしずつせりあがる。

 ずっと魚信がなく、最後のキャストが、荒瀬に向かってである。オーバーハンドで投げると、ズバッと目標地点に着水した。リールを2巻か3巻した瞬間に、グオーンとラインが引かれた。魚が食いついたのだ。追い合わせをガツンと食らわせ、ラインを全速で巻いた。重量感のある魚は近寄ってきたが、私を通り過ぎて、下流の平瀬に走った。心地よいリールの逆転音が響く。5メートルばかり走らせてから、リールに手をかぶせて止めた。浮上した魚は、良型のイトウだ。頭を振ってルアーを振り飛ばそうとしているが、針は顎にガッチリ掛っているから、もう勝負はついている。抵抗が穏やかになったのを見て、背中のタモを左手でつかんだ。右手の竿で魚をあやつり、水面下に沈めたタモに流し込んだ。魚が暴れて、ルアーは顎から吹っ飛んでいた。

 魚の入ったタモを持って、岸辺の浅瀬に歩き、そこで巻尺により体長を測り、バネばかりで体重を測定した。イトウは89㎝で4.8kgであった。川の中流には珍しい大物で愉快だ。写真を数枚撮り、水中が透明なので、水中写真にも挑むことにした。そこで登場するのが、グリップである。これをイトウの下顎にかませる。タモの中で外れないことを確かめてから、水中に移しかえた。なぜかグリップで水中を泳がしておくと、イトウはあまり暴れないのだ。水中撮影にはオリンパスTG-1というデジカメを使う。これがけっこうよく撮れて、馬鹿にできない。

 こうして一連の楽しい作業を済ませてからグリップを外してやった。魚を身を翻して、深みに消えた。私は時計を見て、ヒットの時間や、体長体重をメモ帳に記載した。1匹の魚で心は満たされ、車に戻る足取りは軽い。

 大雨で遡上したイトウは、とんだ目にあったわけだが、痛い思いをしたあとはどうするのだろうか。下流に下がるのか、中流にとどまって、しばらく居つくのだろうか。