25話  川で人と会う


 私は川で釣りをしているが、人と会うことは非常にすくない。なぜなら私は人を避けながら釣りをしているからである。まず多くの釣り人が集まるようなところへは行かない。入ろうとした川に先客がいることが分ったら他へ転進する。大川で他の釣り人が右岸に集まれば、私は左岸に立つ。たまたま川中で、他の釣り人と遭遇してしまった場合、相手が気づかなかったら隠れてやりすごす。

  こうしてみると私が川で人と会うのは、いわゆる「がっちんこ」しかない。釣り上がり組と釣り下がり組が途中でかちあったときである。この種の遭遇は、お互いに不幸である。コースは探られているのでその後の釣りにはあまり期待できないからだ。とくに原始河川を遡行しているときに、「がっちんこ」するとその後の釣行は、なんのために苦闘しているのか分らなくなる。これは私だけではなく、遭ってしまった相手も同様である。とくに私は深い川でも原則として川中を歩いているので、私のあとに探ってもしばらくは魚は出てこないのではないかとおもう。

 人里はなれた深山や湿原に苦労してやってくる釣り人であるから、相手もただ者ではない。かなりフィールドに慣れたアウトドアマンであるに違いない。狙いは私とおなじ野生魚イトウである。それならば、遭ったことをきっかけにイトウ談義をたのしみ、ゆるせる範囲で情報交換をし、交友をはじめることができるかもしれない。そんなわけで、川で会った人に私から声をかけてしばらく川中での釣り談義にふけってみようとおもった。

 中年の夫婦の釣り師に会ったことがある。最近では女性の川釣り愛好者もいるが、私が出没しているような荒野で竿をふる女性は珍しい。これは当然ご主人のサポートがあるから来ることができるのであろう。スキのないフィッシングウエアや道具類を見ただけで、経験豊かなフィールドワーカーであることがわかる。

 「やあこんにちは」

 「あ、高木さんですか」

すでに相手は私をご存知のようだ。

 「どこかでお会いしましたか」

 「アウトドアの店で講演をされたとき、フロアで聴いていました」

それなら私の素性もわかっているはずだ。

 「きょうはどうでした?」

 「家内が1匹釣り、わたしはいい型のをばらしました」

私のほうはまだ1匹も掛けていない。

 「それじゃあ、そいつをもういちど狙ってみます」

気のおけない会話を交わして、彼らは下流へ、私は上流へと別れた。

 ふたりとは、その後もなんどかフィールドで出会った。その都度すこしずつ相手のことを知るようになる。親しくなるにしたがって、お互いの釣り場情報も明かすようになる。「このひとなら、あちこちでしゃべって、釣り場を荒廃させることもあるまい」という信頼感が芽生えるからだ。

 「高木さんのいう人跡未踏の川に、歩いて行ったことがあります」

私が仰天するようなことをいう。

 「歩いて?」

 「ただし春ですけれど。増水して水面が釣り座に近いので、釣りやすかったですよ。イトウが何匹も水面直 下を泳ぐので、三角の航跡が見られました」

 それだけのヒントでもう十分だ。私が水路から到達したのは、いずれも草木が背丈以上も伸びた夏以降の季節で、歩いて到達するなんて不可能と決めつけていた。それを夫婦が春に歩いていったのだという。私がその日の夜、地図をひっぱりだして、詳細な検討にはいったのはいうまでもない。ほんのちょっとしたアドバイスで視野が開かれることがあるのだ。

 大川で88pのイトウを釣って気分よく帰宅した夜、阿部幹雄から電話があった。

 「でかいやつを釣ったそうですね」

 私は心底おどろいた。釣ったことは事実だけれど、まだ誰ひとりにも明かしていなかったからだ。情報源を聞くと、阿部のメール友達が、私の釣りを遠くから双眼鏡で眺めていたそうだ。その翌日、私がおなじ釣り場に姿を現すと、当の御本人がいた。そこであらためて自己紹介をしあった。チライという名で釣りのホームページを開設している熱心な釣り師であった。その出会いの直後に、彼が見ている前で私が91pを釣り、彼が写真を撮ってくれたので、すっかり親しくなった。いまではチライ氏と私は週末ごとに釣行結果をメールで報告しあう間柄となっている。

 川で会う人。それは、街で会う人と違って、おなじフィールドで時間を共有しているから、それだけで同志ともいえる間柄となる。どちらかというと人見知りする私にとって、友人を作る環境は、人里はなれた原野でしかないのかもしれない。