249話  イトウ産卵の混乱


 2015年は冬の少雪からはじまった。北の住民は一様にしのぎやすい冬の生活に安堵した。だが私は「もっと雪が降って欲しい」と独り祈りつづけていた。なぜなら、山の積雪量が少ないと、当然ながら河川の雪解け増水も少なく、雪代に乗って遡上するはずのイトウの産卵にも大きな影響を与えるからだ。

 4月の新年度を迎えたころ、稚内の市街地にはもう雪はほとんどなかった。日本海に浮かぶ利尻山の全貌が眺められるおだやかな日がつづいた。エゾシカがノシャップの自衛隊基地の周りを悠々と散歩していた。春の到来が平年より2週間は早いと感じた。

 411日から産卵河川の見回りをはじめた。行って驚いたのは、あたりの風景が黄金週間直前のころのようであったことだ。雪がほとんどなく、川の水位は低く透明で、水温が6℃台である。これはひと雨降れば、一気にイトウが昇ってくるかと気を引き締めた。

18日に同じ川へ観察にでかけた。小雨降るなかで車を停め、橋から川面をのぞきこむと、なんとそこにイトウのペアがいるではないか。とりあえず確認したので、写真を数枚撮ってから、大急ぎで周辺のポイントを廻り、他にも産卵行動をとるイトウがいるかと探したが、いなかった。水温は6.1℃、水は透明だ。ペアはずいぶん早いランナーだったのかもしれない。80㎝の婚姻色に染まったオスと、80㎝のほんのり赤いメスで、数メートル上流にいる私に気づいていないのか、淡々と掘り行動をつづけた。2014年には426日に産卵行動を見たので、私の記録では8日早いことになる。

その日、隣の川の湿地帯ではすでにエゾアカガエルが鳴いていた。ハンノキのてっぺんにはオオワシもいた。空の王者オオワシが川の王者イトウを襲うシーンでもあれば、千載一遇の写真が撮れるかとおもったが、猛禽はすぐに去ってしまった。結局イトウはまだ遡上していなかった。

翌日も観察に通った。オスの遡上は確認したが、メスの姿はなかった。前日のペアの産卵行動から、一気に爆発的にイトウの遡上が展開するかと期待したが、そういうことは起こらなかった。しかし、すでに川の雪代は収束し、このまま徐々に減水していくと、イトウは障害物を跳び越えて産卵床に到達することすら不可能になる。ことし生まれの稚魚が激減する心配もでてきた。こういった産卵不作の年というのはあるものだ。

その週は夕暮れ時にさらに2回見に行ったが、オスしかいなかった。イトウの産卵では、オスが先行して、渕や物陰でメスの遡上を待ち受けるそうだが、ことしはメスがなかなかその気にならないのだろうか。

25日には人を連れて、また出かけた。牧草地わきの川には、先客が3人もいた。ふたりは地元の人で、「ことしは例年の三分の一しか水量がない」とこぼしていた。それでもイトウは無理やり遡上して、なんとか産卵を決行したらしいという。温暖化が進んで、毎年雪代増水が早く終わるようになったら、イトウは本来の産卵場所に到達できずに、条件の悪い川床に産卵する可能性が高い。こうなるとイトウの世代交代に明らかに支障がでるだろう。

27日も午後に出かけた。川で釣友に出会い情報を交換した。「下の堰堤に設置された魚道が干上がっていて、機能していない」という。例年の水量ならなんら問題がないのに、渇水になると人工的な障害物がイトウの遡上に立ちはだかる。

結局、私は29日で産卵観察を打ち切らざるを得なかった。山で急傾斜の崖をよじ登ろうとして、ふくらはぎの肉離れを起こしてしまったからだ。産卵観察の回数は多かったが、きっちりとペアの行動を目撃したのは、たったの2回だけであった。こんなことは初めてだ。

イトウは季節の進行にともなう水量や水温ではなく、独自の体内時計にしたがって産卵行動をしているとしたら、昨今の早い季節変動に対応できずに、産卵を通常の場所で果たすことができなくなる。サケ科イトウ属の種の保存のために、なにかできないかと思案している。