24話  都会と田舎


 私は都会生まれで、都会育ちであるが、いまは田舎に住んでいる。都会はけっして嫌いではないが、いまは都会にはたまに行きたいとおもうだけで、日常は田舎のきれいな空気を吸い、ゆったりした時間のなかで仕事をやり、休日には原始の川で竿をふることを無上の喜びとしている。私は京都と札幌と東京という都会の生活を経験した。もちろんそれぞれ魅力的な街である。ほしいものはなんでもそろうし、心地よい店もたくさんある。古い友人もたくさんいて、声をかけると気軽に相手をしてくれる。たまのひとときを都会ですごすと、ほんとうにリフレッシュされた感じがする。

 しかし都会に住みたいかというと、それほどあこがれはない。年をとって田舎の生活に不自由が生じるようになったら都会に住みたいとおもうようになるかもしれないが、いまはそうではない。
人はたぶん、群れをつくるのが好きなタイプと群れから離れたがるタイプの二種類に分かれるのだろうが、前者が都会に集まり、後者が田舎に住むとはかぎらない。

釣りでは群れたがるひとと、群れたがらないひとははっきり分かれる。イトウ釣りではいっそう顕著である。大川の下流や河口部の釣り人が多数ならんでいる所でばかり狙うひとがいる一方で、湿原や森の奥深くに単独で進入して、ひとりで竿をふりたいひともいる。私はいままで群れのなかにいるのは苦手で、たいていは単独で行動してきた。複数で行動するのは、写真家とふたりのときだけであった。単独行動は危険で困難も多いが、それだけに野生の感性が研ぎ澄まされ、自然を満喫できる。
 
 それでも最近ではいく人かの友人と並んで釣りをする楽しみも覚えた。誰かにイトウがヒットすると、ワーッと集まって釣果をながめ、ちょっと嫉妬しながら祝福するのもわるくはない。むかしのなにがなんでも一匹狼でやるという意固地は薄れてきた。イトウ釣りに関していえば、都会暮らしと田舎暮らしのどちらが有利だろうか。イトウ釣り師のほとんどは都会人である。イトウに熱中してイトウ談義に夜更かしするのもほとんどが都会人である。それは、絶対的な人口比によるものなのだろう。道具を仕入れるには都会のほうが便利である。しかしイトウが釣れるのは田舎なのであるから、都会の釣り人の一匹の釣魚にかける時間や経費といったコストパフォーマンスははなはだ悪い。

いっぽう田舎に暮らしていると、釣りにそれほどガツガツ固執しない。時間があるときにホームリバーへちょっと出かけて竿をふれば、イトウは釣れるからである。釣行はけっして遠征なんて大げさなものではなく、週末の余暇であり、ときには平日の朝飯前の一匹ともなる。それだけに釣りにたいする熱情はそれほどではない。イトウの会のメンバーを見ていても、年がら年中、目を皿にしてイトウを追いかけているのは、会長の私くらいのもので、会員諸君はピークシーズン以外は、コンディションを選んで効率よく釣りを楽しんでいる。
 
 明らかに田舎暮らしのほうが、イトウにめぐり合う機会は多いが、大事なことは釣り人にとっての一匹の価値であろう。田舎でいつものように労少なくして10匹のイトウを釣ることと、たいそう無理をして都会からやって来てようやく1匹を手にすることのどちらが幸せであるかは、人それぞれである。
以前は遊魚についていえば、新聞記事やガイド本はすべて都会から発信されていた。しかしインターネットが発達した現代では、発信元がどこでもよくなった。さまざまな地方のフィッシングサイトが、非常に信頼のおける情報源となりつつある。情報の信頼度からいえば、友人からの生の声やメールが一番であるが、サイトからの情報も頼りになる。ガイドブックや釣り雑誌の情報はその次である。

私は田舎に住んで、田舎だけではなく都会の釣り師とも交友を結んでいる。たまに釣り場ではいっしょに竿をふり、夜は地元の居酒屋で釣り談義にふける。宗谷だけではなく、日本中のトラウトの情報を入手し、たまには海外の話も聞ける。私のような釣り師が一番しあわせな釣り師なのかもしれない。