232話  ヒグマ目撃


 201310月上旬の白昼、ついに宗谷でヒグマを目撃した。宗谷に暮らすようになって25年目、場所は稚内市郊外のサラキトマナイで、自宅から車でわずか10分ほどの国道40号線路上である。ヒグマは西側の山から国道を横断して、東側の大沼方向へ歩みはじめたところであった。

「やった、ついに見た」とおもった。車を運転していた私は、急ブレーキをかけ、助手席の防水袋にいれたカメラを取り出した。距離は約30メートル。ちょっともたつきながら、カメラを構えたとき、ヒグマはすでにUターンし、スピードをあげて来た道を引き返して逃げていた。艶やかな黒褐色の体毛が美しくうねり、予想以上の速度で山側へ去っていった。ファインダーも見ないでシャッターを押したが、すでにヒグマの姿はなかった。

私はヒグマを見慣れていないので、大きさを正確に指摘できないが、小熊や犬の大きさではなく、立派な成獣だったとおもう。ヒグマが出てきた小道には、以前「ヒグマ出没」の看板が立っていた。ヒグマの通路だったようだ。

私はふつうの住民よりずっとヒグマに遭遇しやすい環境にいる。イトウ釣りのために、ヒグマが往来する川沿いのグリーンベルトに出たり入ったりしている。人里はなれた農道や林道も歩く。ヒグマと遭遇する可能性がある場合は、熊鈴、ベアスプレー、ボウイナイフを装着した腰ベルトを巻いているが、幸いそういう道具の世話になったことはない。ただし、ヒグマ本体との遭遇はなくても、足跡、糞、あるいは臭気といった痕跡はなんどか経験した。おそらく、ヒグマのほうが、いち早く気づいて、私から距離を置いていたのだろうと思う。

秋になって、飼料畑のデントコーンが実るころには、付近の道路にはとうもろこしの混じった糞がぼたぼた落ちている。それを知るとデントコーン畑に近い川では釣りをやる気がなくなった。道北にはサケが遡上して自然産卵する川があるが、産卵場所にはサケの死骸がるいるいと横たわっている。おそらくヒグマの格好の餌場になっているだろう。サケの産卵場所近くで釣りをするのも避けたほうがよかろう。

野生のヒグマをじかに見たということで、いつ遭遇するかもわからないと覚悟を決めた。購入してまだ手をつけていない新しいベアスプレーがあったので、原野で試射してみることにした。偏光グラスを掛けていたし、試射する際右腕をめいっぱい前方に伸ばしてブシューと一発試射した。不注意だったがそのとき私は微風の風下にいたことだ。ほんのわずかの飛沫を顔面に浴びた。それは激烈な刺激だった。偏光グラスのわきから眼に浴びたスプレー液はまるでたまねぎ100個分ねじ込まれたほどの眼痛を生じ、それから20分間私は眼を開けることさえできなくて、うずくまっていた。「眼を洗わなくっちゃ」と思ったが、盲目状態で、車のなかを手探りしてつかんだお茶でやっと洗眼したが、そんなもので洗い流すことなど無理だった。私の経験では、ベアスプレーの試射でさえこんな目にあうのだから、実際ヒグマの至近距離で使う場合は、なかなかうまくヒグマだけに浴びせることはできないとおもう。それでも確信したのは、まともにヒグマにヒットしたら、相手はまちがいなく逃げるだろうという強烈な効果だ。

この秋は道内のあちこちで、ヒグマ目撃情報が報道されている。ヒグマ情報のサイトもある。大物イトウを狙って河川の下流部から河口部で釣りをするのであれば、ヒグマ対策は要らないとおもうが、すこし不安の残るエリアであればぜひとも上記のヒグマ対策をとったほうがよかろう。私はそうしている。