230話  ひと振り


 プロ野球には代打男がいて、たとえば阪神タイガースのベテラン桧山進次郎は、試合終盤のここぞというチャンスに登場し、たったひと振りで、チームを勝利に導くことで人気を博してきた。

 私も長いあいだイトウを狙って川で竿を振っている。好調な今季、たったひと振りで決めたことがあった。

 6月下旬の平日の朝は、くもりで無風だった。気温10℃で、肌寒くとても初夏といえる陽気ではなかった。440分には川に到達し、素早く準備をして、いつもの定点に立った。

 岸辺に立った私は、まずはゆっくりと川を眺めた。水面は鏡のように平らで、あちらでポカリ、こちらでポカリとのどかなライズリングが広がっていた。すでに一般的にはイトウ釣りの春のシーズンは終わったようで、釣り人の姿はない。

 道具を点検する。11フィートの長竿には20ポンドラインを巻いたリールがセットしてある。その日のルアーは、ひさしぶりにMM13の新品を結んだ。

その時だ、私から5mの水面が突然盛り上がり、ライズリングがゆっくりと同心円を描きはじめた。至近距離にいる釣り師としては、「おれをなめてる」挑発と受け取った。「おのれ見ておれ」と竿を振りかざし、円のど真ん中にMM13をストンときれいに着水させた。ひと呼吸おいて、水面はさらにモアーっと膨らみ、激しく渦を巻いた。

 「ヒットした、嘘みたい」

  穏やかだった水面は、にわかに沸き立ち、水しぶきがほとばしった。大きなイトウの独特の首ふり動作が竿を振動させる。そして遠慮なく走る。ジュジューとドラグが鳴って、すこしラインが出る。竿が大きくしなる。まことに心地よいイトウの引きだ。

 「まずバレそうにない」と判断した私は、防水袋から一眼レフを取り出し、竿を左手、カメラを右手に持って、イトウのファイトを撮影した。2分もすると、イトウがおとなしくなり、浮上した。メートルはないが、良型である。陸から見下ろす魚体は、黒くていかつく、迫力満点である。

 さて取り込みの段になって、私は川中に降りた。川床は玉石で、水深は膝ほどだ。右手に柄を短くした直径80pのタモ網を持ち、左手で魚をコントロールして引き寄せ、なんなくタモ入れした。イトウが暴れるので、まずラインを切って、竿を遠ざけた。ルアーのフックを口から外して、これも遠ざけた。フィッシングベストからバネ秤を取り出して、タモごと重量を計った。風袋を引いて6.5kgだ。網を川壁に押し付けて、素早くメジャーで体長を測った。90pである。流れるようにこうした処理を済ました。もう一度、カメラを出して、全身、顔などを撮影した。得意の自作自演の抱っこ写真もフラッシュをたいて撮影した。網からイトウを放つと、不愉快そうに身体をゆすって、深みに消えていった。

 この日の初キャストからまだ20分ほどしか経っていない。しかしすっかり満足してしまい、もう釣りをつづける意欲が湧かなかった。そのため、この日はたったひと振りの竿さばきで終わった。

 こんなことはめったにないが、初めてではなかった。家から遠い川であれば、いくら納得のゆく魚を釣っても、すぐ引き上げることはもったいない。すぐさま2匹目を狙って、キャストを再開するであろう。ほんの近くの川で、いつもの釣り座であるから、「もう居ないだろう」という推測も重なって、1匹釣れば引き上げることになった。幸せな地元釣り師の、幸せな朝のひとコマであった。