私の釣りの相棒で写真家の阿部幹雄は、万能アウトドアマンである。生まれは漱石の
「坊ちゃん」名高い四国の松山で、北大に入学し、山スキー部に入部したことから、私
の後輩となった。彼は工学部を卒業したが、フリーの写真家として身を立ててきたので、
会社というものに就職したことがない。
1981年彼は北海道山岳連盟のミニャコンカ山登山隊に参加したが、頂上アタック
隊のうち8人が北壁を滑落して死に、自分もクレバスに落ちたが九死に一生を得るとい
う壮絶な山岳体験をもっている。彼はよく
「写真家のぼくが生き残ったのは、写真の技能を活かして仲間を弔うために生かされ
たのだ」
という。いまでも亡き岳友の家族を訪ねては線香をあげ、氷河に遺体が現れると収集に
いって荼毘に付し、納骨するという律儀な男である。
1996年10月から私のイトウ釣りの取材をはじめた。写真週刊誌「フォーカス」
の契約カメラマンだったので、ここ一番というシャッターチャンスを絶対に逃さない。
ところが当時の彼は、湿原の川の中を歩いて魚を釣るという釣行に慣れていなかった
ので、なんどか川中で転倒して商売道具のカメラを水没させた。高価なカメラやレン
ズがお釈迦になったときの切なさは、釣り師が竿を折ったとき以上である。なにしろ
カメラは飯の種なのだから。痛い目にあった彼は川に持ち込む防水袋を考案し、ダイ
ビングスーツのメーカーに試作品を作らせた。足回りも工夫して、いまでは転倒する
ことはない川の男になった。長い期間、ふたりでイトウを探して宗谷の森や湿原を歩
き、そこでおこる森羅万象ひとつひとつを目撃し震えるような感動を経験した。宗谷
の川が、蛇行するという本来川がもっている性質を残していることがうれしかった。
川が曲がることによって、淵や瀬が生まれ、川床に多彩な変化が生じ、そこにイトウ
をはじめとする魚が居つくことがわかってきた。
イトウの産卵期は、すぐ近くで巨大な魚を観察できるチャンスである。阿部がその
撮影に没頭していったのは当然の成り行きであった。彼はヒグマが徘徊する源流部へ、
毎日単独で出かけていっては、一日中川にへばりついていた。彼はおそらくいま宗谷
のイトウの産卵について誰よりもよく知っているに違いない。
「きょうはこの沢とこの沢に入りますから、帰ってこなかったら、そこを探してく
ださい」
毎日、遺言のような言葉を残して出かけていった。彼が帰還しなかったことはないが、
代わりに愛車を酷使して廃車にした。撮影釣行の相棒としては、もう長い付き合いで、
彼も魚つき場を熟知しているから、川へ行って特別の言葉は要らない。
「じゃあ、ここは上流へ迂回して、撮ります」
などと言い残して、さっさとヤブをこぎ、撮影ボイントへ移動する。
「なんだか、釣れそうですね」
と彼が言うと本当にヒットするから不思議である。予知能力があるのかもしれない。
阿部が同行すると妙によく釣れる。これは、釣り師の私が単独行のときより集中力が
増すからだとおもっているが、阿部はそうではなくて、「自分が福の神」とおもって
いる。
最近彼はスチールカメラマンというよりもビデオジャーナリストとして仕事をして
いる。北海道テレビに「みきおジャーナル」というコーナーをもっている。自然もの
を中心にドキュメンタリーを作っているが、自身も登場してコメントをのべたりもする。
「ぼくは報道写真家ですから、あまり顔が売れると困る」
といって、写真に撮られることを拒否していたころが嘘のような活躍ぶりである。
2004年は阿部といっしょに川へ行く機会がすくなかった。だから大物のヒット
シーンもあまりものにできなかった。とくに100cmイトウを釣り上げたときに彼が
いなかったのは、残念であった。そのとき、川の中で、100cmを膝の間にはさんだ
まま、携帯で彼に電話をした。
「おい、いまメーターを釣りあげたばかりだ。もう午後4時をすぎて、まもなく日が暮
れる。どうする」
阿部は「うーん」とうなってから、
「いまから6時間もかけてそちらへ行っても撮影できないから、リリースして下さい。
次に行くときに、また釣ってください」
と答えた。
まもなくコンビを組んで10年目のシーズンを迎える。ことしの課題は、メーター
オーバーを彼のカメラの前に引き出すこと。もうひとつ、イトウが群泳するシーンを見
つけること。どちらもできそうな予感がしている。
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