第229話 釣らせる |
イトウ釣りは定点釣りであろうと、移動釣りであろうと、簡単ではない。それでも私はイトウ釣りを25年間やって経験を積み、6月の宗谷であれば2時間くれたらイトウを釣って見せる自信はある。 ことしイトウ釣りの初心者に原野を案内してイトウを釣らせる機会がなんどかあった。6月の宗谷の湿原は、自然環境としてもこの上なく美しく、原始の川を歩いて、そこに棲むイトウを釣ることは、釣り愛好者にとって至福の時間である。 しかし、一方で湿原特有の危険も待ち受けているので、慣れない人を連れていくには、予想できるトラブルの対策も立てておかなければならない。私にとっては、わが庭のような川であっても、初めての人にとっては、右も左も分からない迷路だ。 危険の第一は水中転落である。川中を歩いて背丈が立たないところは、高巻くが、泥壁を滑り落ちる可能性はある。私は落ちることはないとして、落ちた人を助けるには、素早く水に浮上するロープを投げなければならない。それを腰ベルトにセットしている。 泥炭色の川は深く見えるが、必ずしも深いとはかぎらない。川の深さは、常に把握しておかなければならない。そのために私はよく竿を川中に突き刺して、深さを知ることにしている。いきなり川に踏み込むことはご法度だ。 危険の第二はロストポジションである。自分の居場所が分からなくなってしまうことだ。私がいる限りそういう事態にはならないが、はぐれたり、別行動をとったときには、初心者は里に帰れなくなる可能性がある。川のポイントごとに、ここはどこで遠景を記憶するように教えている。 6月下旬、イトウの会の会員をひとり連れて原野に入った。林道はイタドリや樹木のかぶさりで廃道寸前の荒れた状況である。私の車で林道に突入し、木の枝がボディをこする悲鳴に閉口しながら、なんとか目的地に達した。 ここから川に入川する。天気は曇、水温14℃、透明度はよく、コンディションは最高だ。 水深は腰くらいだが、初めての人は原始の川に立ちこむことで、かなり緊張する。いつもならここで1投目か2投目で魚が出る。しかし、私とは異なる人が、ちがう作法でキャストするので、魚が警戒して食いつかない。私は手出ししないで、指導に専念する。 ルートは蛇行する川を流れに逆らって釣りあがるのだが、どうしても通過できない深場は高巻いていく。そこには、鹿と私のけもの道がしっかりトレースされている。 釣り場はうっとりため息がでるような、みごとな大場所小場所の連続なのだが、初心者は大事な1投目であらぬ方向にルアーを放って、その場を台無しにすることもある。キャストしてもリーリングが安定しないので、頻繁に根がかりしてルアーをロストする。見ていて気の毒だが、それが授業料というものだ。 コースのなかばを過ぎても、まだ魚信さえない。いや魚は確実にいるはずだが、食いつかないのだ。彼もルアーを変え、巻き取り時に振動を加えたりして工夫するのだが、川は沈黙しつづけた。 「ちょっとやってみてくれませんか」とリクエストされて、「それじゃあ」と私がキャストした。数投してバシャと魚がでて、それがイトウだとわかり彼は驚いた。 「大丈夫、イトウはいるよ」と励まし、終盤の大場所に案内した。原始の川が小さな瀬になり、ブッシュの脇を駆け抜ける。そこへダウンでキャストするよう指示した。ドンピシャで水柱が立ち、ラインが走った。それが彼の初のイトウ52pで、非常に美しい魚体であった。私がタモですくい、「おめでとう」と握手を交わした。イトウを抱っこする写真、満面の笑顔、川風景などを私のカメラで撮影した。描いていたシナリオどおりの結末で、私はたいそう満足した。 原始の川を遡行すること4時間、肉体的にはかなりきつい釣行だったとおもうが、彼には忘れられない体験となったはずだ。ひとが童心に返って喜んでくれるのを見るのは気持ちがいい。上陸して、林道を車まで戻るあいだの四方山話も楽しかった。 しかし私はなんども他人と釣行することはない。あとは、自己責任でやってもらうしかない。 |