209話  大バラシ


2012年の黄金月6月は、イトウがよく釣れた。唯一の難点といえば90pを超える大物がヒットしなかったことだ。まったく大物がかすりもしなかったわけではない。じつは、確実にルアーの針にかかっていたのだ。

6月中旬の早朝、私は岬と名づけた定位置に立っていた。天気はどんよりと曇って、朝日さえ川面に届かなかった。対岸の下流で静かにクルージングするイトウの航跡が見えた。いることはいるが数がすくないと感じていた。

その前日には、ピックアップ寸前のルアーにカツンと体当たりして、逃げていったイトウの姿を偏光グラスで確認していた。イトウが私の近くに来ていることは感じていた。

5時すぎると、川の流れがはっきりと速くなった。下げ潮の始まりだった。急に小魚のライズが活発になった。下流の湾胴には、1匹のイトウが定期的にクルージングを行なっていた。

「いよいよ来るか」と身構えた。

ルアーをK-Tenのパールホワイトに代えた。腹の針はシングルフック2本にしてあった。そいつを、下流に向かって全力で投げた。50mほど飛んで、ルアーはきれいに水面を割った。

リールをふた巻きか三巻きしたところで、ゴンとはっきりとストップが掛かった。重々しいドラグのうなりを発して、魚は沖合い方向に走りはじめた。猛り狂っているというわけではなく、ゆっくりだが容赦のない走りかたであった。この時点で、スレ掛かりではなく、本当に私が釣ったことのないでかい魚の口にフックが刺さっていることを確信した。

私はとっさに腕時計をみて、533分であることを確認した。おそらくランディングまで相当な時間がかかることを予測したのだ。

鏡面のようにフラットな水面に突き刺さったラインが、ジリジリと対岸に向かって遠ざかっていく。すでに川の中央部を超えていた。ドラグを締めると多分ラインブレークするだろう。そこで左手の平で、ラインを握って停めにかかったが、熱くて握っていられない。「この魚は停められない」と悟った。

私はなすすべもなくただおじぎをしたロッドを両腕で必死に支えるだけであった。ドラグ音が鳴るだけの妙に穏やかな局面であった。

魚は50mも離れた対岸直前で、水面近くに浮上したのか、モワーッと水が膨れあがった。私は走られるのもここまでと気合を入れて、リールを巻いたところ、すでに重圧は失せていた。フックが外れてしまったのだ。

「なんてことだ。かつてない魚だったのに」

ヒットしてから30秒ほどしか時は経過していなかった。はかない夢がもろくも崩れ去った。私はなにか失敗をしでかしたわけではなかった。要は相手が一枚も二枚も上だっただけである。

去年の夏にも同じことが起こった。そのときも、別の川の右岸から下流に投じたキャストにドンと巨大魚が乗った。まったく今回と同様な走られかたで、どうにも停めることができないまま、50m以上ラインが出て、最後にフッと軽くなった。川沿いにはヨシとイタドリがびっしりと茂って、追いかけることなどできなかった。

このようなランは、魚の口以外の場所にスレ掛かりしたときも起こるが、その場合は、ダッシュというか、イトウがスピードアップして振り切っていくことが多い。ゆっくりと

しかし有無を言わさず走るときは、やはりきちんと口に針掛かりしているのだ。やっぱり逃げた魚は巨大だったのである。