204話  2012産卵観察


 2012年の残雪は多かったが、黄金週間を迎えるころ気温が急速に上がり、里の雪は一気に解け始めた。

 「大雪のせいでイトウは例年どおり産卵のため遡上するだろうか」

 誰もがその行動の遅れることを予想した。しかし、イトウはなにごともなかったようにいつもどおり上流へ向かっていたのだ。

 黄金週間後半に突入してから、私は毎日川へ産卵を見にでかけた。自宅から片道ちょうど1時間かかる川は、いつも静かで野鳥のさえずりが心地よく聞こえてきた。皆伐のあと生えたシラカバが山すそを覆っていた。気温は15℃を超え、吹く風も心地よい。

車を停めて、ウエーダーとジャケットを身にまとい、カメラを持って川へ近づく。草地の端を覆う笹の切れ目から川をのぞき込んでは、「どこかに赤いものはないか」と探す。

 するとゆるやかな屈曲を描く瀬のどこかで、赤い魚体がユーラユーラと動くのが眼にはいる。イトウが遡上していたのだ。しかもかなり大量に。

 わりに高い位置から全体を俯瞰できる川は、観察がしやすい。しかも笹が岸辺をカバーしているので、魚は安心して産卵行動に取り掛かる。撮影は望遠レンズを使用して行なうことになるので、あまり近接でシャッターは切れない。素人向きの撮影環境である。

 黄金週間の最後の日、新聞記者でもある会員を連れて、この川に来た。記者はその日、生まれてはじめて婚姻色に染まったイトウを目撃して驚いた。金魚みたいな大魚が足の下を悠々と泳いでいたからだ。私もむかし阿部幹雄とはじめてイトウ産卵の取材にきたときの感動を思い出した。残雪の白さとオスの赤があまりにも対照的だったからだ。

 屈曲部をいくつか廻ると、ペアが瀬で掘り行動にかかっていた。90p同志のペアであった。メスが産卵床の深みに沈むとはっきり見えなくなるほどのササ濁りの透明度であった。メスが身体をほぼ真横にして、ひらひらと尾びれで小砂利を払うと、もうもうと砂煙があがった。切り裂く刃のような銀白が脳裏に焼きついた。たしかにカラフルな産卵行動である。

 産卵にいそしむペアに別のオスが近づくと、観察者を喜ばせるバトルが始まる。ペアのオスは速やかにメスから離れて、侵入者を追い払いに出陣する。相手が小さいオスなら、一瞬にして蹴散らす。相手が巨大なオスなら、逆に追い払われる。しかし、同じくらいの体長の相手だと、まことに見ごたえがある。2匹のオスは、お互いに並んで泳ぎながら、頭部を水面にまで持ち上げ、体の大きさを競い合うように見せ合って、「どうだ、おれに勝てるか」とばかりにガンを飛ばすのである。一瞬のにらみ合いのあと、闘争が開始される。たいていはペアのオスが勝って、勇躍つれあいの待つ産卵床に戻ってくる。たいそう頼もしく男らしい。

 こういった産卵にまつわるバトルは、初めて見る者にとってはまことに刺激的である。

 「ヒトの場合、たいてい頭のいいやつかずるいやつが勝つけれど、イトウでは必ず大きくて強いやつが勝つ。分かりやすくていいだろう」「はいはい、納得します」

 3日後、イトウ産卵の記事が新聞紙上に載った。ペアの写真もしっかり写って、カラーで載っていた。川で初めて体験したことを的確に記事に仕上げていた。さすかがにたいしたプロ根性である。