「八戸の本波幸一」と名のる人からメールをもらった。宗谷にイトウ釣りに行くので一度
会いたいという内容だった。本波幸一という名前はとっくの昔から知っていた。トラウト釣
りの名人で、「南部の寒立馬(かんだちめ)」の異名をもつほど辛抱強く、一日中おなじ水
面に杭のように立って釣りつづける人だと聞いていた。
5月末、稚内の居酒屋でんすけで彼と待ち合わせた。豹のような身のこなしの精悍で格好の
よい男性であるが、口を開くといかにも東北の好人物らしいとつとつとした話しぶりだった。
彼の相棒の大田氏も同席した。いきなりイトウ談義となり、それが一気に加熱しとどまること
もなく深夜に及んだ。イトウの生態、とりわけいつ何を食っているかといった捕食行動につい
て非常に詳しかった。それは彼が釣り師として実際に体験した生態だった。
「あしたから川に行きます」
そういって、彼は去っていった。それからときどき釣果を記したメールが届いた。数は順調
に出ていたが、本波名人にしては、大物が少なかった。苦戦しているなと想像した。
「移動します」
6月にはいってから、フィールドを変えるというメールが来た。そして大潮の日、最初の爆
釣の連絡が来た。
「大田君が、94pにつづいて99pを釣りました。やばいです」
ときた。本波名人にはまだ超大物がヒットしていなかった。ふたりが南へ移動する時期が
迫っていた。
「いちどいっしょに広いところで竿をふりたい」
と私が提案した。本波名人もすぐ賛同してくれた。かくして、6月12、13日に一緒に
イトウ釣りをすることになった。指定された場所へ行くと、ふたりがまるで忍者のようにヨ
シ原から現れた。案内された岸辺からすぐ3mばかりの水底がかけあがりになっていた。そ
こで、イトウがゴンと出るという。狭い河原が随所にあり、ここなら巨大魚でもズリあげが
できるだろうとおもわれた。12日は川が比較的に澄んでいた。本波名人の美しいキャスティ
ングには見とれた。ダブルハンドのロッドをひと振りすると、ルアーが弾丸のように鋭い弧
を描いて飛んでいった。ルアーの軌跡を楽しむように、彼はロッドを右手一本で支え、すこ
し悲しげな表情で沖合を見やった。私は50mほど離れて釣り座を構え、ひたすらキャストを
つづけたが、その日はふたりとも魚信なしに終わった。
翌13日、ふたたび本波名人とともに川岸に立った。この日は海風が強く、川には波がたっ
ていた。岸辺の泥炭を洗った川水は薄茶色に濁っていた。
「こんな日にイトウが釣れるんです」
本波名人が確信をもって言った。私は直径1mの小さな島になった釣り座を与えられ、川と
向き合った。川幅は広い。海にキャストするのとおなじ感覚である。それでも不思議な予感
がしていた。目の前の濁った水のなかをイトウが行ったりきたりしているような気がしてい
た。竿をふりはじめて1時間、14時25分のことだった。いきなりリールの回転が重くなり
竿がギュンとしなった。
「よっしゃ!」
いつもの叫びが出た。竿をふっていた本波名人がすっとんで来て、写真撮影をしてくれた。
イトウは体色の白っぽい70pで、11ftの「物干し竿」を満月のようにしぼらせる力はな
かった。それでも、彼と大田氏は私の釣果をたいそうよろこんでくれた。招待された私も
釣り師の面目をほどこして、気分が悪いはずがない。撮影会とイトウのリリースが終わると
握手攻めを受けた。
「これは、大物が来る前ぶれかもしれない」
そうおもうと、喜びもつかの間、すぐにキャストに取り掛かった。すると、25分後に又、
イトウがヒットした。今度は59cmの小ぶりであったが、釣り師にとっては、まさに「入れ
食い」感覚となる。
「爆釣モードだ」
こんな大川でどうしてここにだけイトウが群れているのか信じられなかった。本波名人は
最高の釣り座を私のために用意してくれたのだ。
「来ますヨ。もっとでかいのが」
本波名人があおるように言う。私も異様な気分の高揚感を味わっていたので、その気にな
ったが、さすがにその日はそれで終わった。
その2日後の15日早朝、川にいる本波名人から短いが熱いメールが来た。
「やりました。メータージャスト、10.4sを5時半にあげました」
パンパンに肥った巨大イトウを抱いた本波名人の写真が添付されていた。本波名人のイト
ウ釣りに対する信念・集中力・根気・体力をみていると、巨大イトウが釣れないほうがおか
しいと思う。しかし彼にしても宗谷に来て朝から晩まで竿をふる生活を3週間つづけて、よ
うやく100pちょうどのイトウを手にすることができた。巨大魚を釣ることはそれほど簡単
ではないのである。