186話  原野歩き


 私はイトウが好きなのだが、イトウが棲む湿原河川や河川を取り巻く原野を歩くことも好きだ。

 早春のイトウ釣りでは、まだ河畔の樹木や下草の背丈が伸びていないので、河畔を歩くことは容易だ。しかし6月半ばともなると、背丈が伸びて鬱蒼とした雰囲気になる。そうなると、釣り人はそういった場所を敬遠する。植物の圧倒的なパワーがなんだか不気味だし、労力も要るからだ。私はそうなるのを待っている。川は「俺の川」状態になるからだ。

 7月ともなると、使われていない草地にはイネ科の植物が穂をつけて、いっせいに粉状の花粉を撒き散らす。原野に突入すると、伸びてきたヨシの根本に足がひっかかり、進行を妨げる。去年の枯れたヨシがフワフワとクッションになるが、これが体力を消耗させる。河畔では私の背丈を超えるイタドリなどの一年草が視野を妨げる。それだけに、すべてを突破して、川の流れの中に滑り込むとホッと安堵する。ここまで来るだけですでに玉の汗だ。

 耳を澄ませるまでもなく、野鳥のさえずりが聞こえる。カッコウとエゾセンニュウだけは分かるが、その他はまったく姿かたちも名前も知らない。ことしは、宗谷で二度もタンチョウの姿を目撃した。

ときおりキューンとエゾシカが警戒音を発する。白い尻を上下させながら、軽快に跳躍するエゾシカのリズミカルな動きにほれぼれとする。ヒトとはまるで脚力がちがう。

ヒグマも生息しているはずだが、私は原野で遭遇したことはない。いたずらに恐れても仕方がないので、私はベアスプレーを携帯しているだけだ。学生時代の日高山脈登山で二度ヒグマと出あったので、見通しさえよければ、すぐに見つけるはずだ。

川に入ると蚊がワッとたかってくる。私は米軍ご用達の防虫クリームを顔と手に塗りたくる。日本製と違って、しばらくは効果がある。皮膚の弱い人は、使用しないほうがよい。

さて川の遡行をはじめる。深くて腰、浅くて踝くらいの絶妙の深さがいい。湿原河川といっても、ドン深つづきや、瀬ばかりだとつまらない。魅力的な瀬や渕は緩急ある流れを産み、そこにイトウが潜む。河畔ヤナギがトンネル状に覆いかぶさった水路や、毎年場所を変える流倒木のダムは、イトウの格好の隠れ場所である。泥炭の壁がえぐられたポケット状のくぼみも魅力的だ。そういった場所をときには下流側から、ときには上流側からキャストして攻める。いくつかのポイントを丹念に探ると、かならずイトウが出る。大体2時間のコースで、三度はそういうヒットがある。大雨のあとの減水期や、2週間以上寝かしておいたなら、もっと確率が高くなる。

こうして2匹ないし3匹の釣果が得られると、深い満足感に満たされる。釣行ルートは長く、たどると際限がないので、適当な場所から陸にあがり、また深い藪をこいで農道に戻る。ヨシ原には、エゾシカの踏み跡があるので、それを見つければ労力は半減する。ときには、私の踏み跡をシカの群れがたどって、ずっと幅の広い立派なハイウエーに変わっていたりもする。原野のヒト道がけものに利用されるのだから愉快だ。

大汗をかきながら原野を突っ切って車に戻ってくると、小さな冒険は終わる。持ち帰る獲物はなにもないが、いく匹かの手ごたえの記憶と、何枚も撮った風景と魚の写真は、心地よい土産となる。これらの画像は、帰宅してからパソコンで見て、あらためてほくそ笑むのだ。むかしやっていた登山といまの原野行は、垂直と水平の相違はあるものの本質的にはなにも変わりがない。ヒトは歳をとっても変わらないのだ。