184話  お待たせ


 6月初日、私は3時に起きた。さっそくストレッチして日課のランに出かけ、9qほど走った。夜が明けると、快晴微風の素晴らしく美しい朝となった。

 「こんな朝を屋内では過ごしたくない」

私は、汗をぬぐったあと、一念発起して平日朝飯前の釣りに出かけることにした。

 川には釣り人の姿がなかった。休日にはあれほどのルアーマンやフライマンがいたのにどうしたことか。6月になると禁漁になるかのようだ。川はやや減水、ササ濁りで波もなく、静かに流れていた。目の届く範囲には、ライズもなければ、ボイルの水しぶきも見えない。

 釣り座に立つと、上流側と下流側に遠投を繰り返す。イトウは小魚を追いかけて、岸辺近くを泳ぐので、岸辺に平行にキャストする「線の釣り」をやるべきなのだ。対岸方面に投げると、流れと直行する「点の釣り」になってしまいヒットの確率が著しく落ちる。

 ササが生い茂った岸辺の深場からはイトウは出なかった。すこしずつ下流へとくだる。イトウはこの時季には、案外浅場に潜んでいる。小魚の群れを追って、浅場に追い込み、一網打尽に飲み込む。だから、水深30pの水面でもおろそかにできない。なにか不自然な水流や波紋が見えたら、そこを狙い撃ちするべきなのだ。そのため浅場専用のいわゆるシャローミノーを使う。

 川岸に岬のように張り出した釣り座がある。そこに乗って、キャストをした。さっぱり魚信がないので、そろそろ帰るかと思ったとき、ズシャと足元のヨシの生え際でボイルが起きた。泥水がモワーと膨れあがった。

 「なに!こんな所にいたのか」

標的の居場所が分かったら50%は釣ったようなものだ。その周辺を絨毯爆撃する。5分間ほどはルアーを集中砲火のように投げ続けたが、当たりがない。

 「もっと小さな餌魚か」

ルアーを17pから9pのヤマメカラーに換えてみた。

 あまり飛距離の出ないルアーだが、半径20m範囲に投げつづけた。

 いきなりドドーンという衝撃的な魚信とともに「お待たせ」の水柱があがった。ついに食いついたのだ。ジュジュジューとドラグが効いて、ラインがリールから吐き出されていく。すごいパワーだ。川幅の8割ほども行ってしまったが、そこで停まった。リールを巻き取りはじめると、再度ジュジューと糸が出される。しかし、徐々に瞬発力は落ちて、魚が近づいてきた。すでに潜る力もない。

 「獲れる」と直感して、カメラを袋から取り出し、連写態勢にはいった。水面直下をゆっくり動く巨大魚は、顔に傷をもち鬼のような面だ。尾びれが大きく、メーターはあるかもしれない。

 「さてどうやって取り込むか。タモですくうか、泥浜にズリあげるか」

ズリあげのほうがはるかに安全なので、すぐその態勢をとった。イトウは重いが、もう意のままに引きずることができる。横になった魚体を最後はラインを手で引っ張って泥浜に陸揚げした。ルアーを外し、魚体をとりあえずタモの中に収めた。

 「でかい!」

しかし、メジャーをどう当ててもメーターには若干届かない。結局97pと分かった。体重はバネ秤で8.8kgと読んだ。それでも大魚だ。黄金の月の初日にめでたい。

釣魚の体色と呼吸状態を見ながら、写真撮影にはいった。口や頭部に傷がある雌だ。ことし何回釣られたのだろうか。ちょっと痛々しい姿だ。

近くに平坦な流木があったので、その上にカメラを固定して、抱っこ写真も撮った。デジタル一眼レフの液晶で、ちゃんと写っていることが確認できるのがありがたい。

泥をかぶった魚体をすこしきれいにし、かけあがりの手前に置いた。魚はしばらく留まっていたが、そのうち思い直したように、深みにゆっくりと消えていった。

手やタモやウエーダーにこべりついた泥を川水で洗い落とし、ノートに魚のデータを記した。満ち足りた最高の時間だった。