175話  俺の川


 イトウ釣りにかぎらず、川釣りでよく話題になるのは、釣り場を明かす問題である。インターネットでは時空を超えて、猛スピードで情報が飛びかうため、情報を流してほしくない人びとからは、いっせいにブーイングが発せられる。自分が気に入った釣り場を、不特定多数の釣り人に知られることを恐れるからだ。

本波幸一さんによると、解禁時期の大サクラマスの川・赤川では、彼がどこで何時にどれくらいのサクラマスを釣ったかという携帯やネット情報が間髪をいれずに関係者に伝わるそうだ。宗谷ではさすがにそういうことはないが、私には練達の釣り師が、メーターオーバーを釣ったという情報が、本人や仲間から短時間に伝わる。しかしこれは少数の仲間内の情報伝達であって、影響はすくない。

釣り人とは不思議な人種である。大釣りをした、数釣りをしたことを自慢したい一方で、その場所は他人に知られたくないという二面性をもつ。徹底的に隠すのであれば、ネットに釣り場情報を流すなどは論外である。ひっそりと釣り、ひたすら自己満足すればよい。

むかしフィッシングカフェという釣り番組を作りたいと相談をうけた。VTRカメラの前でイトウを釣ってみせる自信は十分にあった。それ以前に相棒の阿部幹雄と撮影釣行を繰り返していたからだ。しかし、視聴者に当該の川を知られないような撮影釣行をする自信はなかった。それならば、誰もが知っているイトウの聖地を最後に見せることにして、そこに至る過程の「俺の川」をすべてさまざまな手法を駆使してカモフラージュすることにした。「イトウのサンクチュアリを守る」と題した作品には、宗谷の川がふんだんに登場するが、その場所を正しく指摘できるひとは少ないはずだ。

 「イトウ 北の川に大魚を追う」と「幻の野生 イトウ走る」との2冊の本に掲載された写真は阿部幹雄が撮った。写真の多くはどの場所だか分からないとおもう。その証拠に、地元の釣り場に詳しいはずの釣具店の店主に見せたところ、彼は誰もが知っている大場所以外はほぼすべてを間違って回答した。たぶん私と同じスタイルの釣行を実践している釣り人でも、5割まで当てられないだろうとおもう。

 私が書いた本や出演したVTRは、けっして釣り場ガイドではない。「こういうスタイルのイトウ釣りもあり、釣果もあがって非常におもしろいが、さまざまな危険も伴うから、それも覚悟の上で参考にしてみてください」というつもりで作った釣行記録である。もし同様の釣りをつづけている釣り人がいたら、「ははーん、ここのことが書いてあるのだ」とか「ここがロケ地だ」と気づくことがあるかもしれない。それは後付けの種明かしであり、ガイドではない。

北北海道はシベリアや南極とはちがう。人跡未踏の地などどこにもない。しかし、一年に人が一度しか訪れないような原始の川はあると信じる。私はそういった手つかずの川や湖へ若い人びとに果敢に挑戦してもらいたい。誰もが簡単に到達できるようなところで、多少の釣果を得て、ネット上で釣り場を明かした自慢話なんかしてほしくない。また仮にそこがどこだか分かったとしても、眼の色を変えて殺到するのも覇気がないではないか。

私の釣り仲間にも、ホームページのゲストにも、絶え間なく釣り場の開拓をつづけるパイオニアがいる。そういう人びとは、簡単に情報を漏らすことはない。苦労して到達した釣り場を荒廃させたくはないからだ。

野生のイトウは辺境の魚だ。釣り場が釣り人で大賑わいになると、さらに辺境に移動する。松浦武四郎が蝦夷地を探検した幕末から明治のころ、彼が巨大イトウをみたと記録に残した石狩川や天塩川は当時では辺境であった。では現代の辺境はどこか。私はそれを探す川の旅をつづけよう。そこが「俺の川」なのだ。