第160話 空跳ぶイトウ |
イトウとのお付き合いが始まるのは、毎年の大型連休からである。北国の長い冬を乗り越えてき私たちも待ちきれないおもいだが、おなじような人びとが全国から宗谷に集まってくる。しかし、この頃はまだ雪代で川は大増水しており、釣りにはならない。そこでイトウ釣り師は、イトウ観察者に変身する。もともとイトウ好きで、川を歩いている人びとであるから、イトウを探すのには長けている。 大型連休の中日に、稚内のでんすけでイトウ釣り師4人が集まった。イトウ開幕祝いの宴である。約半年ぶりの顔合わせで、地元民の私は、予定時間の30分も前から店にあがって先にビールをやっていたところ、横浜のtorakoさん、札幌のFujiさん、旭川のチライさんがすぐに集まってきた。みなさん元気そうでまずは握手である。ビールで乾杯したあと積もる話もあったが、まず驚いたのは、チライさんが持ち込んだ1枚の写真であった。 すばらしくシャープな婚姻色のイトウ写真で、小滝の上をビシッと真横に跳躍していたのだ。 「まるではめ込みの写真みたいだね」と感嘆した。チライさんは、その決定的なショットをきょう撮影し、はやくもプリントしてみんなに配ったのだから、相当な自信作である。 「おれもジャンプを見たい」という声が異口同音にあがった。それで翌日には4人で出かけることになった。 8時半に待ち合わせて、4台の車を連ねて現場の川に向かった。私もなんどか通った源流部であるが、原始の川というものは、1年でも見ないと、その流れが相当変わることもある。 案内されて現場に立つと、ひどい泥濁りの流れである。それでもところどころに瀬や落ち込みがあり、そこを遡上する赤いイトウをサッと見つけてしまう人物がいるのだからすごい眼力である。 「ここです。いま跳びます」 そう言われて、半信半疑のまま準備にかかった。流倒木が折り重なって複雑な落ち込みを成している。落差は約1mだ。これはイトウのジャンプ観察にはちょうどよい。これより落差が大きいと全然跳べない。また小さいとジャンプしないで、水中をサッと遡上してしまうので、観察者の眼には止まらない。 デジタル一眼レフカメラを構えて待っていると、想定外の対岸寄りをかすめるようにザバーンと出た。みなシャッターを押したようだが、まともに撮れたひとはいない。私といえば、加齢現象で視野に捉えてからシャッターを押すまでの反応時間が長く、まったく魚の姿さえ写せなかった。愕然とする。 イトウはいつどこから跳躍するか予測がつかない。オリンピックの金メダリストのような大ジャンプを見せてくれると、なんとか捉えることができるが、たいていは踏み切り失敗の失速ジャンプで、元の落ち込みに逆戻りする。 それにしても、赤いイトウの滝のぼりは見栄えがする。むかし写真家の阿部幹雄と別の「ジャンプ台」で半日過ごしたことがある。こんなイトウの躍動は見たことがないと興奮して、スチール写真とVTRで延々と撮影したものだ。彼の特だね写真は朝日新聞の紙面をかざり、のちに「幻の野生 イトウ走る」の表紙にもなった。 約2時間、イトウのジャンプはつづき、跳んだといっては、カメラの液晶画面を見比べて、「影も形もない」とか「頭を水中に突っ込んでいる」とか批評し、笑いあった。なかなか楽しい撮影会である。 昼近くなると、雪解け水が増して、明らかに流量が増え、濁りも増した。渓流とはいえ転落するとやばい流れである。イトウのジャンプも間隔が長くなり、やがてピタリと止んだ。 イトウのジャンプは、ごく限られた人びとしか巡りあわない宗谷の珠玉のショータイムであった。 |