窓の外を見ると、11月だというのにまばゆいほど晴れ渡っている。小春日和の直射日光のおかげで仕事場の部屋は明るく、暖かい。昼食を食べると、すぐさま睡魔に襲われる。春夏秋冬をつうじて一日を建物のなかで過ごすのは、あまり得意ではない。
「おれの右手に竿を持たせて、岸辺に立たせてみよ。おれの能力も捨てたものではないぞ」
と密かに思っている。川に張り付いている本波幸一名人から写真つきのメールが届いた。
「快晴無風で、川はべた凪です。7時40分に63cmが来ました。きょうはバカスカ釣れま すよ」
晴れ渡った空を眺めながら、私は「うーん」とうなる。日曜日のきのうは本波名人といっしょに竿をふっていたのだが、強風・みぞれ・低温・川の濁りのため、一日竿をふって一回の魚信もなく敗退したのであった。晩秋から初冬にうつろうこの季節には、日々の天気がめまぐるしく変わる。朝が快晴、午後から雷が鳴って雨が降り、夜は暴風雪などということも簡単に起きる。釣りに関していえば、天気のおかげで歓喜と絶望が交互する。
イトウ釣りのシーズンはあとわずかしかなく、ゆく時を惜しむように、日本各地から釣り師たちは、やってくる。この時期に集結するひとびとは、初心者ではない。腕に自慢のベテランであり、百戦錬磨の業師である。身に着けているウエア類も使い込んだ渋いものであり、実用に十分な機能をもっている。竿・リール・ルアーなどたずさえている釣りの道具類も高性能で高価であり、しかもメーター仕様のごついものばかりである。マグロでも釣るのかと思うようなハードな仕掛けもある。軽く振っただけでは、まったく曲がらないカチカチの竿もある。
お互いに顔と名前を知っているひとびともいる。しかし本業はなにをしているのかは、ほとんど知らない。そんなことは、どうでもいい。尊敬を集めるのは、どんな釣果を生みだしたかということだ。交わされる会話は「なんセンチがいつどこで出た」といったものだ。魚種は省略されている。イトウに決まっているのだ。
釣り師たちは、越冬を前に荒食いするイトウを求めて、膨大なエネルギーと時間と費用を使って来ている。例えば札幌から稚内へ来るには車で片道330q、5時間強の運転となる。燃料費高騰の昨今、費用もかかる。まして冬場の運転では、緊張もそうとうなものであろう。往復に要するエネルギー、時間、費用は毎週ともなると膨大なものである。イトウほどコスト・パフォーマンスのわるい釣魚も少ない。遠征してくる釣り師がイトウを1匹釣るのに、いったいどのくらい金がかかるのだろうか。
他人事ながら、釣り師の家庭は大丈夫かなと心配したりもする。作家の夢枕獏さんが言っているように、「幸せな釣り師に幸せな家庭はない」からだ。それでも釣り師たちは、週末の朝になると熱っぽいがやや寝不足の眼をして川岸に立って竿を振っている。とどまることのない意欲、あらゆる障害を乗り越える根性は、地元のわれわれのとうてい及ぶところではない。
これほどまでに釣り師を引きつける初冬のイトウの魅力とはいったいなんだろう。それは、春とはまったく異なるイトウのコンディションである。産卵行動で消耗し、傷だらけでやせ細った春のイトウとは、まったく別物のようなはち切れんばかりの充実した魚体を見ればすぐ納得がいく。降海してふたたび遡上したばかりの銀ピカの魚体は、まるでサクラマスのように、暴れると鱗がはらはらと落ちる。筋肉質のうえに腹部は荒食いでボコンとせりだし、抱っこすると腹がプリンと垂れ下がる。そんなイトウが、ドカンとヒットし、縦横無尽に暴れまくるのだから、たまらない。おそらく、春とおなじ体長の初冬のイトウは、1倍半のパワーを出すであろう。
宗谷の川が完全結氷するまで、あと1ヶ月あるかどうか。それまでの間にイトウと釣り師はどんなドラマを演じるのだろうか。