彼はもうこの世の人ではない。2003年末にスポーツクラブでトレーニング中、急に激しい頭痛と意識障害をおこし、くも膜下出血の診断で手術をうけた彼は、年が明けて帰らぬ人となった。享年61歳。強くやさしく、誠実でなにごとにも一生懸命で、まるで古き良き時代の西部劇の主人公のような男だった。
 彼と私がまだふたりとも20歳代の1970年、いっしょにキャンプをしながら長い旅をした。舞台は北極圏で、われわれ貧乏旅行者はヒッチハイクでヨーロッパ北岬ノールドカップを目指していた。ラップランドとよばれるフィンランド北部の湖沼地帯で道路わきに立って、乗せてくれる車を日の丸を振りながらひたすら待ちつづけた。太陽が傾いて人影が長くのびる白夜のもとで、茫洋とした360度の風景のなかなには、いつも湖沼の水面が鈍い光を放っていたような気がする。

 世界中の釣り人に愛用されるラパラというルアーは、フィンランド製であり、こういった湖沼や川で魚を釣るために作られた疑似餌である。もちろんそんなことは、当時は知らなかった。せっかく森と湖の国を旅しているのに釣り竿すらもっていなかった。
 バルサ材で作られたラパラのルアーは、どこかとぼけた顔をした魚型であり、まだ日本製の精巧な魚型ルアーが出回っていなかったころには、たいそう高価な釣り道具でなかなか買えなかった。イトウ釣りをはじめたころ、ラパラの白いジョイント・ミノーにはずいぶんお世話になった。湿原の川にラパラをキャストして引いてくると、水面下をくねくねと腰を振って泳ぐ姿がよく見えた。そのラパラに黒い影がスーッと近づき、いきなり襲いかかると、立ち上がる水飛沫のなかでラパラは姿を消した。その瞬間から釣り師の至福の時間がはじまるのだった。

 旅のあと20年以上がすぎ、私は医師として宗谷に住むようになった。ある夏、彼の大学生の次男がフラッと遊びにきた。次男は釣りをやったことがなかったが、イトウ釣りには興味をもって、私の弟子になった。近くの川で、まずはルアー釣りのキャスティングの練習からはじめた。高校で野球をやっていた次男は、父親に似て運動神経が優れ、素直な性格もさいわいして、すぐに即戦力の技術を身につけたのには感服した。一日中イトウの棲む川につれ回し、日没間際の最後の最後に60p級のイトウをヒットさせたのだが、取り込みの技まで教えていなかったので、あえなくばらしとなった。それでも次男は「すっげえ魚ですね」と喜んで、宗谷の土産話を父親に持ち帰った。

 1999年秋、東京新宿の京王プラザホテルのニコンサロンで写真家・阿部幹雄のはじめての写真展が開催された。テーマがイトウと釣り師と宗谷の自然であったから、私も二泊三日で上京して会場に姿を見せた。そこへ彼をはじめとするむかしの旅の仲間がどやどやと来てくれた。

 「いつのまにホクダイは、釣りの名人になったんや。ちゃんと医者やっとるんか」

 そういう遠慮のない彼の言葉が無性にうれしかった。ホクダイは当時の私の愛称であった。
その夜、新宿でちょっとした宴を張り、もう若いとはいえないおじさんやおばさんが、30年前の青年にもどって気勢を上げた。
 ふだん日本の最北端に住んでいる私は、めったに上京する機会がない。しかしそういう機会には、麻布で仕事をする旅仲間のグラフィックデザイナーの事務所におじゃまして、そこへ彼も浜松から合流することがなんどもあった。互いの近況や家族のことなどから、話題はイトウに及ぶこともしばしばあった。

 「一度、そのイトウという魚を釣らせろよ」

 「次男坊みたいに素直にオレの指導にしたがったら、かならず釣らせてあげる」

 だがその約束を果たすことができなかった。こんなに早く死ぬことなんか考えてもみなかった彼が、あっけなく逝ってしまったからである。ラパラの白いジョイント・ミノーを見るたびに、ラップランドで過ごした日々がよみがえる。テントを踏みつけるようにして、キャンプサイトをノシノシ歩き回っていた大きな角の雄トナカイ。ゴソゴソとうごめくネズミは、集団で大移動するレミング。車に拾ってくれたラップ人の日焼けた老人。それらの幻影のかなたにいつも元気な彼がいて、呼びかける。

 「おーい、ホクダイ、そろそろイトウを釣って見せてくれ」

 「よーし、いま釣ってみせるから」

 私ははるかな友に応え、ラパラを釣り糸に結んで、天空へ向かってキャストした。 

A word of JHPA president