148話  晩秋の哀愁


 イトウ釣り師にとって、晩秋は哀愁にみちている。

シーズンが残り少なくなってまことに寂しい。日の出が遅く、日の入りは早いので、一日のうち実釣に使える時間が短い。

朝晩の気温が下がって手指がつめたい。雨がしょっちゅう降り風も強い。厳しい気象条件で釣りをつづける根気が維持できない。

しかもイトウが下流の大川に拡散してなかなか釣れない。週末を必死に釣っても坊主という結果になることが多い。

私は11月以降の釣りは苦手である。それは得意とする中小河川の立ちこみ釣りをしても釣果があがらず、やむなく下流の大川で、竿を振らなければならないからだ。狙いどころもはっきりしない大河で、えんえんとキャストをつづけるのは、しんどい。ときに苦痛でさえある。

それでも好きな釣りを止めるわけにはいかない。もうあと何回も釣りをすることができないので、無理を押して出陣する。

 救いは、晩秋の宗谷の壮絶な美しさである。朝は海面から水蒸気が昇り、霧状のけあらしが出現する。川に日が差すと、ヨシ原が黄金色に輝く。朝日でも夕日でもきれいだが、とりわけ夕日を浴びて微風にうねるヨシ原は、秋の湿原を象徴する絶景といってもいい。鳥の鳴き声を耳にして、ふと空を見上げると、コハクチョウのV字編隊が南に向かって飛び去っていく。冬枯れの川岸を歩くと、朽ち果てた木々の葉っぱがまだ赤や黄の色を残している。川の水は水温が下がってとろりと粘っこく、透明なのに珈琲色に濁ってみえる湿原ならではの色合いをみせる。

 私は独り竿をふりながら、今シーズンの釣りをかえりみる。めぐり合ったイトウたち、釣友や釣り場で出逢った人びと、印象に残った空、原野、川の風景。ガツンと竿を介して伝わった魚信さえも、生き生きと蘇える。

私の手は機械的にキャスティングとリーリングをつづけるが、回想は時空を超えて、奔放に旅をする。

「あのときの引きは、凄かったなあ」といったドラマを断片的に思い出し、そのシーンにしばらくは浸りこむ。

なんの当たりもないまますでに時は落日のころとなる。風がでて、川は軽くうねりはじめ、低い雲の往来も激しい。ときおり「天使の階段」といわれる光の束が、雲間から地上に突き刺さるが、それはすぐにかき消されてしまう。

日が沈むと、あたりを急速に闇が支配する。私は二本継ぎのロッドを仕舞い、振り出しの大タモを短かくして、車までの土手道をゆっくり歩きはじめる。

車に釣り具を積み込み、ポットから珈琲をカップにそそいで、飲み干すと、エンジンをかけて帰途につく。

「きょうも釣れなかった」と落胆しながらも、めげずにつぎの釣行を思いハンドルを握る。

晩秋は初冬に移ろうが、ときには季節が立ち止まって行ったり来たりすることもある。こういった深まる季節のなかで、会心の釣りができるのは、ほぼ例外なく小春日和という穏やかな天気のときだ。そんな日は、朝は氷点下にまで冷え込むが、太陽が昇ると気温もあがり、徐々に水温も上がって川は絶好のコンディションになる。

私の釣り日誌には、そういった願ってもない日の会心の釣りの記録が、興奮して乱れた字体で、つづられている。

「最後の一投を投げたら、いきなり根がかりした。あーあ、今日はツキがないなあと、しゃくりはじめたところ、根がかりがゆっくりと生命感のある動きをはじめた」