晩秋の宗谷は、悲惨な天気が続く。天気予報を見ると、ほとんど毎日傘マークが付く。雨がつづけば当然のように川は増水し、膨れ上がり、釣りどころの騒ぎではなくなるからだ。そのころになると、私は「早く雪が降ってくれ」と願う。雪が降れば、雨とちがって川が増水し、茶色に濁ることはないからだ。雪景色になると、寒いけれども竿をふることができる。雪の白さによって、野山も湿原も明るくなる。晩秋はあやふやな川のコンディションだから、いい釣りができる機会はあまりない。しかし、ほんのたまに素晴らしく印象的なイトウ釣りができることもある。
2003年の11月初めには3連休があった。写真家阿部がやってきた。北大山スキー部の先輩である倉持寿夫氏も夜行列車で稚内に来た。そこで遠来の客人になんとかイトウを1匹釣らせようと、阿部と私は2台の車を駆使して、あちこちの川に案内したのであるが、出るのはアメマスばかりで、イトウらしいイトウはさっぱり姿を見せなかった。11月3日も湿原の増水した川をうろうろし、苦労の割には報われない釣りをつづけて、午前が過ぎ、大河の立ち込み釣りもやったが魚は出ず、14時半に大渕へやってきた。ここは大河が大きく屈曲する大場所である。友人が水深を測ったところ8mあったというから、電柱が立ったまま隠れてしまうような深さである。あたりの地形は岩盤であり、岸辺は切り立って豪壮な川風景をつくっている。深い渕はかけ上がって露出した岩盤の溝に移行し、おだやかな瀬となる。このあたりにイトウはいそうだと思った。
「遠景を狙います」
阿部はそういって、60mも離れた場所に三脚を立てた。
私が立ったのは、露出した岩盤の岬のひとつで、ここからは広い渕のどこでも探ることのできる扇の要の釣り座であった。私は11ftの物干し竿のような長竿をふりまわし、11pの重い魚型のルアーをフルキャストした。ルアーは、シュッと小気味のいい風切り音を残して空中を飛び、遥かかなたの淵にドボンと吸い込まれた。
「気持ちいーい」
大河で存分に竿をふる痛快な喜びに私は酔いしれた。しかし、いつまでたっても魚信はなく、阿部は退屈して自分も竿をふりはじめた。そうして1時間が過ぎた。いままで全天くもって薄暗く陰気な雰囲気であったが、突然雲間から夕日が射しはじめあたりは明るく色づいた。釣り師の私は太陽を背負ってシルエットになっているはずである。阿部が竿を置いて、私に向けてムービーを回しはじめたから、きっといい絵になっているのだ。
「よおし、釣ってやろう」
私は俄然はりきって、竿を思い切りキャストして、ルアーを遠くへ飛ばした。ゆっくり時間をかけて、深く潜るルアーをイトウが目を光らせているはずの深淵に送り込んだ。しかし、反応がない。どうしたのだ。イトウはどこにいるのだ。ふと足元を見ると、いままでなかった小魚のライズがあちらこちらに見えるようになった。小魚が突然湧いたような感じであった。私は釣り座から、対岸方向にあたる左岸に近い岩盤を目標に、全力で竿をスイングさせ、ビューンとルアーを投じた。
「飛んだ!」
かなりの飛距離が出た。ルアーが白い水飛沫をあげ着水した。すこしカウントダウンさせて、リールを巻いたところ、グググとちょっと重い抵抗が感じられた。明らかにヒットした証拠だから、ふつうならこの時点でアワセをくれなければならない。しかし、長い間イトウを釣っていない私は、反応が遅れた。それでも魚は竿に乗った。
「ヒットしたぁ」
私は大声で阿部に伝えた。ちゃんとムービーを回せという意味だ。彼は、私の竿の動きを見ているだろうから、大声は必要ないかもしれないが、釣り師は叫びたいほどうれしかったのだ。
1ft竿は大きく半月を描いて曲がった。こういうとき長尺竿は見栄えがする。私は魚の引きに陶酔し、大きなアクションで竿を操って対応した。魚が近寄ってきた。70cm弱のイトウだ。あまり大きくはないが、貧弱でもない。流下方向に縦に溝が走る岩盤の水路にイトウを誘導し右岸ちかくのまるでイケスのような岩に囲まれた水溜りに流しこんだ。66cmのオスだった。夕暮れ時、黒い岩盤と銀白色のイトウのコントラストは鮮烈だった。私はイトウを両手で頭上にかかげて、遠いVTRカメラにかざした。いい気分であった。阿部が飛んできて、近接の撮影にとりかかり、なめるように撮影した。リリースシーンは水中から映すというので、倉持さんは、照明係を受け持った。
目の前でイトウのヒットを目撃した倉持さんは、目の色をかえて、私が釣り上げた駆け上がりにキャストした。するとなんと彼にもおなじくらいのサイズがヒットしたのである。さきほどの水溜りに誘導した。体長を測定すると66cmである。
「さっきの奴がまた掛かったのか」なんてはしゃぎながら、おなじように撮影が行なわれた。倉持さんは、感動を抑えながら淡々と振舞っていたが、饒舌がうれしさを隠し切れなかった。テレビ放映を想定して、阿部は釣り師ふたりにVTRカメラを向けてインタビューをした。
倉持さんは、「夜行列車に乗って宗谷に来たかいがありました。30cmのイトウ、36cmのアメマスにつづいてさきほど66cmのイトウを上げることができて、大満足しました。」と語った。私はほんのたまに知人をイトウ釣りに招待する。そんなとき遠来の客が釣ってくれるとひどくうれしい。彼の喜びが案内人の喜びでもある。いままで何人かの客を迎えたが、全員にイトウを釣らせることができた。「宗谷に来てよかった」の一言は案内人冥利に尽きる。
この日、われわれは17時に竿を納めた。土手をあがって釣り具を車にしまいはじめた頃、ポツポツ雨が落ちはじめ、やがて本降りとなった。
「まるで神さまはわれわれが釣り終わるのを待っていてくれたようだな」
倉持さんが満面の笑みをたたえてつぶやいた。そのとおりなのだ。釣りの神さまって本当にいるのだ。