139話  雨


 湿原のイトウ釣りにとって、雨は避けられない試練である。宗谷は日本では北国だが、地球的には温帯に位置するから、天気はめまぐるしく変わる。雨も降る。秋雨には毎年悩まされているが、ことしは、黄金の6月にもよく雨が降った。お湿り程度なら影響はないが、3日間ほどしっかり降られると、中小河川は1m以上も水位が上昇し、木や草や泥が流れて、しばらく釣りにならない。

 雨がまとまって降ると、私は源流部へ行くか、逆に河口部へ行く。中流部はお手上げだ。

 雨で膨れあがった川も嫌いではない。サケ科魚研究者の小宮山英重さんは、「雨で魚にスイッチがはいります」と魚の活性化を説明してくれたが、まさにそんなことも経験した。

 晴天つづきで渇水となった魅力のない川に、雨が大魚を運んできてくれる。

 本波幸一さんは、「東北地方に集中して雨が降ると、海を回遊しているサクラマスが、いっせいに川に遡上してくるのです」と教えてくれた。いつも宗谷のイトウのあとは、地元の東北で遡上魚を狙うそうだ。

 雨で増水した幅2mの溝のような水路に、メーターを超える巨大イトウがなぜか入り込んでいたことがあった。まさかそんなことが起きるなんて思いもしないで、ヒョイとミノーを投入したところ、信じられないような黒くてでかい頭が川底から浮上し、ミノーをひとくわえすると、水路が揺れるほどの波を立て、あっという間に消えていったのだ。

雨の日に巨大魚が潜む水路には、その後なんども足を運んだが、同じことがもう一度起きた。もちろん、ラインやルアーをヘビーに強化して行ったのに、まったく同じ結果になった。

それ以来、宿敵をなんとか仕留めることに執念を燃やしているが、三度目の対決はまだ叶えられていない。ことしも雨の日に、MM13のルアーを結んだ20ポンドラインとデカタモを持参して挑戦したが、その日は、水位が高すぎて川に立ちこむことができなかった。

雨が降り続く午後の川岸で、フィッシングジャケットのフードをかぶり、べチャべチャに濡れたベストの重みを感じながら、えんえんとキャストをつづけることもある。海風が絶え間なく吹き、ジャケットの内側も湿ってきて、うすら寒い。

「もうそろそろ引き上げるか」と思いながらも、なかなか決断がつかず、風下に顔をそむけながら釣りをつづけた。そんな時、「ん?」と驚くような竿の抵抗を感じ、大きくしゃくると、竿が生物感のあるおじぎをするではないか。この瞬間から、雨は視野から消えて、釣り師は歓喜に打ち震え、魚とのやりとりに没頭することになる。ワンドの砂浜にズリ上げたイトウは、78pながら、頭が小さく見えるほど肥って4.8kgあった。

雨の日に釣りに行くというと、家人は「何でこんな日に」ととがめるが、私は「イトウは水の中にいるのだ。晴れていようが、雨が降っていようが、魚は同じ境遇なのだ。こっち(釣り師)が天気に合わせればいいだけ」と言って、出陣する。全天候型釣り師にならないと年間イトウ100匹は釣れない。1994年から2008年までの15年間に釣ったイトウ1250匹のうち、雨の日に97匹(7.8%)も釣ったことがわかっている。雨の日をおろそかにはできないのだ。

雨の日には、竿など仕舞って、書斎で読書にふけるのもよかろう。釣り道具の手入れをするのもよかろう。そんなにがつがつ釣って、なんの喜びがあるのかと非難されるかもしれない。

しかし雨の中での釣りにも、それなりの風情がある。機械的に竿をふりながら、想いは別の世界に遊ぶこともある。やけくそになると、雨で泥濁りした増水河川に腰まで立ちこむという暴挙にでることもある。私は、濡れネズミになって竿をふり、雨滴を滴らせて車に逃げ込み、「ひどい釣りだったなあ」と振り返りながら、テルモスの熱い珈琲をすするのも好きなのである。これくらい熱中すると、イトウの神さまは呆れ果て、1匹くらい恵んでくれるものなのだ。