137話  散 髪


 突飛なはなしだが、私は散髪が好きで、釣りの合間によく出かける。イトウ釣りでも、当たりの止まる昼過ぎには、ちょっと町に寄って、理容店に入ることもある。ふつう人は自分が通う理容店を固定しているものだ。私もそうだが、それでもまだあまり髪が伸びてもいないのに、散髪に見知らぬ店にはいったりする。散髪が好きなのだ。金山湖に近い幾寅の町の床屋にとびこんで、「最近こちらへ引っ越してこられた方ですか」と主人に驚かれたこともある。おそらく、小さな町では、床屋の主人は客の素性をすべて把握しているのだから、私は怪しい闖入者だったのだろう。

 私の頭は、スポーツ刈りで、どの店でもカット、洗髪、顔そりを含めて45分から60分くらいのものだ。これくらいの時間が、気分転換や仮眠や構想を練るのにちょうどいい。

鏡に映る自分の顔が、散髪によってどんどん変わっていくのも面白い。

 散髪の過程で、いつも注文するのが、耳たぶの周りと、首の後ろ側をバリカンで、ガーッと一気に刈ることだ。あれがとても気持ちがいい。

頭頂部まで一気にバリカンを入れられてしまうと丸刈りになってしまうが、そのあたりは慎重に鋏をいれてもらう。長さ1pくらい残った髪の下に頭皮が鈍く光ってみえるくらいがちょうどいい。

以前は浜田光男のような往年の日活の青春スターがやっていたまっ平らな頭頂部が気に入っていたのだが、いまは劇画のゴルゴ13みたいにしたがっている。私はもみあげが貧相で、あんな鋭い眼ももっていないから、ゴルゴ13にはなり得ないが。

髪が短いのが好きなのだが、サイドとバックをあまり薄くすると、竹中直人の頭になってしまう。あれは、中世の西洋の絵画に描かれる僧侶のようで、私は好かない。

床屋のサービスで、耳垢とりをやったり、肩から腕のマッサージをやったりする店もあるが、私はそれが嫌いで断っている。キャスティングで十分に動かしている可動域の広い肩など凝ったことがないのだ。

散髪の途中に理容師と四方山話をしゃべりつづける客がいるが、私はだいたい押し黙っている。気持ちよくなるとうつらうつらすることもあるし、釣りの構想に耽ることもある。

散髪中に居眠りするのは、とても気持ちが安らかになり、つい気を許すからである。映画で見る米国のギャングのボスたちは、よく散髪中に撃たれて蜂の巣になってあの世へ逝った。

先日は、豊富町の床屋で、これから行く川のことをしきりに考えていた。あそこからこう入水して、こことここのポイントを丁寧に探ってやろうなどと構想を練っていた。思考が固まっていくと、自然にうなづいたりするものだから、顔剃り中の親父がびっくりしたりする。

散髪が済むと、気分がすっきりしてまた川へ突入する。せっかく洗髪と仕上げの鋏できれいになった頭なのに、あっという間に汗と泥と川水にまみれてしまう。私の場合は、散髪が気分を高揚させるので、より過激な釣りに走ることが多い。そのせいか午後なのにいい魚が釣れたりする。

理容室というのは、どんなに小さな町村にもかならず在る。床屋に行かないで、髪が伸びたら自宅で配偶者に刈ってもらう人もいるが、たいていの人は床屋に行くから、人口が少なくても需要があるのだろう。また理容室を夫婦でやっているところも多く、夫婦がおなじ職場で仲良く働いている姿はうらやましい。なかには、奥さんのほうが鋏づかいが上手で、できたら奥さんに当たりたいという客もいる。

私は一日中川水に浸かっているくせに入浴が嫌いだが、なぜか散髪は好きだ。釣りの合間のオアシスとして、これからもあちこちの田舎の床屋を訪れることであろう。