115話  教 訓


 6月中旬の午後、釣り場に立つと、川の減水のおかげで、釣り座が非常に高かった。川は水深2m以上あって、立ち込めないので、岸から竿をふるより方策はない。河畔林のため上流側にも下流側にも移動できない。

 「こんなとき大魚が掛かったらどうしよう」

そんなことを想いながらキャストしたところ、本当に大魚がヒットしてしまった。無理やり足元まで寄せてきたものの、魚の長さ、胴の太さにたじろいでしまった。持参したタモは80pクラスまではすくえるが、柄が短く、腹ばいになっても魚に届きそうにない。魚は約1メートルの巨大魚で、とてもすくえる代物ではない。私は竿を操りながら途方に暮れてしまった。しかたなく、記録だけでも残そうとファイト写真を撮り始めたところ、数ショットの撮影のあげくの果てに、グングングンと三段の強烈な引きを食らって、ラインブレークしてすべてが終わった。

 私は夢と消えた巨大魚を惜しむよりも、自らの不用意を悔いた。まず強い新品のライン、柄の長い大タモといった道具仕立てができていなかった。さらに取り込みも考えずに、左右に動けない高い釣り座でキャストしたことも浅はかだった。

 それらを教訓として準備を積み、2週間後にまたやってきた。前回と同じ釣り座ではなく、20メートルほど下流に構えた。ここは、水面に手が届く。左右にも動ける。ラインは新品の20ポンドテスト。タモは直径80pの磯タモで、柄も3mはある。

 「さあいつでも来てみろ」

9.6ft竿で風を切って、愛用のルアーMM13 を遠投した。ゆっくりゆっくり曳いてきて、ルアーをピックアップしようとした瞬間、疾風のように黒い影が近寄って、ドスンとヒットした。穂先が水面に激しく突っ込む。とっさにリールのベールを立て、ラインをフリーにして送りだした。そうしないと穂先が折れるからだ。1秒後ベールを倒し、あわせをくれると、魚はまだ乗っていた。ドラグを半回転弛めた。すると魚はものすごい勢いで対岸めざして走り、ジュジュジューとラインがすべり出た。

 「リールが反応してくれている」

 私は魚と闘わない。好きなように走らせる。そして疲れるのを待つ。5メートル走られ、5メートル巻き戻すといった一進一退がつづいた。しかしヒットして10分後、確実に魚のパワーが落ちてきて、水面に浮いた。かなりの大魚だ。ルアーのフックは腹フックが鰓ぶたに、尻フックが口にしっかり掛かっている。

 「獲れる」

 確信した私は、肩の防水袋から素早くカメラを取り出し、ファイトシーンの撮影をはじめて数ショット撮った。

 「さあ、すくうぞ」

 右手で自由にコントロールできるようになった魚を、ラインの長さを調整しながら引き寄せ、左手で大タモの柄を握り、網を水面から深く沈めた。魚は網を見て最後の大暴れをすることがあるからだ。静かに魚を岸に向け、自然にスッとすくった。

 「ネットインした」

 イトウは狭い閉鎖宇宙のなかで暴れあがいていた。そのたびにラインやらルアーやらが身体と網目にからみつく。こういうときは、まずラインを切って、竿を遠ざける。つぎに、魚体からフックを外し、魚の苦痛をやわらげる。魚は水中の網のなかだ。あとはゆっくり、団子になった網からルアーのフックを丹念に外す作業をする。

こういうとき、編み糸で編まれた網は、本当に手こずる。私のは太いモノフィラメントナイロン糸なので、比較的にらくだ。

タモ網のなかに確かに太い立派なイトウが収まった。惚れ惚れする銀白の魚体だ。背中あたりにまだ婚姻色の赤がうっすらと残っている。

まずはフィッシングベストから20kgバネ秤を取り出して、タモ網ごと吊り下げた。8.8kgだから、タモ本体の0.6kgを差し引いて、魚は8.2kgとなる。魚の体長は、静まるのを待ってメジャーで測定すると90pちょうどであった。体長の割りに重く肥っている。

手中に収めたイトウの写真を撮った。この狭い釣り座では、抱っこ写真の撮影は独りではできない。もたついていると、カメラやら偏光メガネやらを川中に落としそうだ。釣り人が落ちることもありうる。

ちょっと未練ながら、イトウをタモ網から出して、深い川へ放った。魚は不機嫌そうにのろのろと沈んで姿を消した。

こうしてメーターオーバーをバラシた教訓を90pで活かした。順序が逆ならもっと良かったが、人生そううまくはゆかない。