漫画家・矢口高雄氏の生んだ名作「釣りキチ三平」を読んで、釣りの世界に踏み込んだ人は数多いことだろう。私はガキのころから、故郷京都の加茂川や琵琶湖で竿をふっていた釣りキチだが、イトウ釣りに関していえば、「釣りキチ三平」は私の偉大なる師匠といってもいい。

 「三平」の「イトウ釣り編」をいったいなんど読みかえしたことだろう。舞台は根釧原野であり、2mの大イトウも登場するが、はじめて読んだころは、2mの川魚なんて架空の存在だと決めつけていた。ところが、宗谷でイトウを追いかけるようになって、イトウの大きさを目撃する機会が増え、体長六尺などというとてつもないうわさをたびたび聞くにしたがって、当時なら2mはいたにちがいないと信じるようになってきた。現在でもサハリンのアインスコエ湖には2mが生息している。

 天才釣り少年の三平は、巨漢の釣り師・谷地坊主と大物釣りを競うことになるが、そのキャスティングの巧みさ、奇想天外な攻め方は、読者の興味を引きつけるに十分であった。作者の矢口氏は、当時の根釧原野でイトウ狙いの釣りをじっさいに経験されたにちがいない。その経験が描写の端々に描かれている。おそらくその頃でもボートから狙う釣りもあっただろうが、三平たちはあくまでも岸辺から巨大魚を追いかける。その潔さがうれしい。

 どこにルアーを投げても根掛かりしてしまうような湿原の川で、イトウを狙う三平の大胆で正確無比のキャスティングは現在の釣り師が常にこころがけなければならない課題でもある。高価なルアーがすぐに根がかりしてしまうのは悲しいが、それでもポイントを直撃するような攻めかたがいつかは実を結ぶ。

 矢口氏は、大イトウがヒットした瞬間の描写で「根がかり」という表現をするのであるが、それはまさに現実の大物のヒットシーンなのである。いきなりガツンと激しくくることは珍しい。「ゆらーっ」と静かに掛かってから、ドドドと走りはじめる。
 
 三平は、掛けた大イトウを、河畔の木にぶら下がって取り込みにかかるが、そういったことも私はじっさいにやっている。河畔林が密生した背丈がたたない深い川で、魚を引き抜くにはそういった奇襲釣法も必要なのである。

 驚いたのは、矢口氏が「ねずみルアー」を登場させていることだ。現在では通販のカベラスが扱う輸入品だが、たしかに植毛された大きいねずみルアーが実在する。ビデオテープを見ると北米のレイクトラウト釣りには有効だ。私も通信販売で購入したが、まだこれでイトウを釣ったことはない。作品が生まれた当時は販売されていたかどうか不明だが、氏の独創性と先見の明には、舌を巻くしかない。

 こうして私は「釣りキチ三平」をお手本にイトウ釣り世界に没頭していくのであるが、やがてイトウ釣りに関する2冊の本を、写真家・阿部幹雄との共著で書くことになった。そのうちの1冊「幻の野生 イトウ走る」(北海道新聞社 2002)をどうしても矢口氏に読んでほしくて贈呈したことがある。相手は超多忙の人気作家である。反応など期待してはいなかったのだが、じつに間髪をいれずに礼状が届いたのには感激した。三平が描かれた絵葉書にしたためられた几帳面で丁重な礼状は、私の宝物となった。

 いちど終わった「釣りキチ三平」が平成の世になって復活したのはまことに喜ばしい。血なまぐさい戦闘の劇画が横行するなかで、「三平」を読んで育った世代は、やさしい自然児の三平がむかしのままの姿で再登場してくれるのをこころまちにしていたのだ。


 復活した三平に、私はいちど宗谷で釣りをしてもらいたいとおもっている。あの魚紳さんにもいっしょに来てもらいたい。私はいつもならイトウ釣りのガイドなどまっぴらご免だが、三平なら喜んで案内したい。三平を連れて森を歩き、湿原を横切り、泥炭色に濁った川に向かうのだ。私がふだん竿を振っている渕で、三平ならどんな攻め方をするかと想像するだけでワクワクする。

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