107話  皇居周回ラン


 4月下旬、上京して早朝ランニングに皇居周回路を走った。皇居の春を彩る名代の桜花はすでに散って見ることができなかったが、代わりに堀端のヤナギの新芽が輝き、菜の花に似た黄色い花が咲いていた。

いつ来ても皇居外周は、きれいに清掃され、気持ちがいい。おまけに都心では珍しく信号機のない5キロコースが得られ、あちこちに皇宮警察の警官が警備に立っているので安全であり、竹橋と半蔵門にはトイレも備わって、ランニングのメッカといわれるランナーに優しい環境なのである。その日も多くのランナーやウオーカーがおもいおもいのペースでコースをたどっていた。

私はいつも銀座8丁目のホテルから、カラスがゴミをあさる早朝の銀座並木通りを通り抜け、有楽町交番から日比谷通りを走って、二重橋前に達する。ここをスタート地点として、反時計回りに皇居周回のランにとりかかる。竹橋までは、内堀通りの平坦路を走り、坂を登って首都高速道路の代官町料金所をあえぎながら通過し、千鳥ヶ淵からお堀を眺め、半蔵門へとたどり、三宅坂のくだりで気持ちよくストライドをのばし、桜田門から祝田橋を渡って内堀通りにもどると、さいごのスパートをして、二重橋前にゴールする。コースの景観はよいが、アップダウンがあり、そんなにラクではない。私のふつうのペースで30分である。

 皇居のお堀に魚が棲んでいることは知っていたが、いつも茶色に濁っているため、まだ魚を目撃したことはなかった。その日も二日酔いぎみでよたよた走っていても、私の眼はしっかりと水面を嘗め回すことを忘れてはいなかった。見るとあちこちにライズリングがポカリポカリと生じている。岸辺ちかくには、悠々と背中を出して航跡を曳きながら泳いでいる魚がいる。

 「鯉だ!」

 それは50pばかりの黒い鯉であった。栄養がいいのか、よく肥っていた。お堀には、ハクチョウがいるが、魚をえさにするような水鳥は常駐していないので、鯉はお堀の王者として君臨しているのだろう。

 皇居のお堀は止水域だが、完全な止水ではないようで、日比谷通りと晴海通りのコーナーには取水口があり、水流がある。そこには、黒鯉だけではなく錦鯉もいて、パクパクとえさをあさっていた。「鯉にえさをやらないでください」という立て看板があるくらいだから、定期的にえさを撒く人もいるのだろう。

 皇居外苑はNHKの朝のニュースのタイトルバックによく登場する。いつも見るのは日比谷通りと外堀だ。皇居外苑は芝生に松がきれいに植えられたすがすがしい公園で、私が学生だったころは野宿したこともあるが、いまはそういう人物も見かけない。警備が厳しいので、あまり人が寄りつかないのだろう。あれだけ都心に位置して、広大な敷地を有するのだから、もっと国民が集える広場にすればよいとおもうが、そのように活用されてはいない。

いっぽう皇居周回路はもっぱら健康志向の老若男女に利用されている。走っているのは、日本の若者だけではなく、帝国ホテルから上半身裸で走りにくる外国の企業トップもいる。皇居の緑をめでる人もいる。犬も散歩している。周囲の高層ビルや都会の喧騒からわずかに隔絶されたエアポケットのような空間を愛する人びとは多い。

 私はふつか続けて皇居周回路を走り、出張を終えて全日空直行便で稚内に帰還した。機上から春霞にけむる天塩川やサロベツ原野を眺めた。首都圏から何度も宗谷に釣りにくる「イトウ命」の人びともこうして道北の地上風景を見て期待に胸を膨らませているにちがいない。

いまイトウたちは、産卵のために川を遡上している頃だろう。またイトウとつきあう長くて楽しいシーズンがやってくる。ランニングで蓄積した体力を活かすうれしい季節が始まる。