102話  お帰り


 電話が鳴って、受話器をとると、

 「こんばんは、阿部ですけど」といつもの声がした。

 「お帰り、いまどこ?」

 「東京です。南極から着いたばかりです」

 去年の11月から3ヶ月ぶりの友の声だ。彼は第49次南極観測隊の夏隊員として、セールロンダーネ山地地学調査にフィールドリーダーとして参加していたのだ。南極行は彼の長年の悲願だったが、その感想を聞くと、「北海道出身の隊員にとっては、夏の調査はラクな仕事でしたね。寒くもないし」と余裕の感想を述べた。寒くもないといったって氷点下20℃くらいにはなったはずだ。阿部がふつうの人ではないのだ。

セールロンダーネ山地とは、ちょうど20年前に私が大陸氷床上初越冬を経験したあすか基地の裏にそびえる標高3千メートル級の山岳地帯である。記憶は20年前にさかのぼり、基地の背後の雪原に屏風のように連なる山なみを感無量で想いおこした。

 「ところで、去年(2007年)はいったい何匹のイトウを釣りましたか」

 「9月までは年間百匹ペースだったが、10月以後急ブレーキがかかって、83匹で終了したよ。それでも 2年連続の貧釣果のあと、平年並みの数字が残せてよかった」

 「それだけ資源量が復活したわけですね」

 「30pから50pの中高校生イトウが増えている。そいつらの時の産卵環境がよかったようだ」

 「イトウの釣り規制はどうなっています?」

 「道は4月5月の釣り自粛を釣り人に訴えているようだが、はっきりしない。イトウの産卵期は川ごとに 異なるのだから、全道一律は根拠がないとおもうけれど」

 「ことしも産卵を見に行きたいですね」

 「南極の無機的な山を見慣れていると、宗谷の源流部のような緑のクマササ、白い雪に映える婚姻色の真 っ赤に染まったイトウを見たいだろう。生物がいっぱいいる環境はいいよ」

 阿部は北海道の春に想いを馳せているようであった。雪が解け、隠れていた草や木が顔を出し、野鳥が飛びかい、けものが残雪に足跡を残し、イトウが産卵に遡上する春の北海道は、ほんとうに生物の豊かな自然環境なのだということが、南極へ行ってくるとよく分かる。つまり南極で暮らしてくると、いっそう北海道が好きになる。

 「本波幸一さんは、どうしていますか」

 「おれもずっと会ってはいない。先日、『Gijie』のサクラマス特集を立ち読みしたところ、巻頭グラビア の22頁が本波さんだったので、うれしくなって買ってしまったよ」

 お互いに共通の友人知人の消息などをとりとめもなくしゃべっているうちに、1時間もたってしまった。男同士の長電話はあまりないだろうし、私も長電話が好きなほうでもない。それなのに阿部と電話していると、長くなる。

 「南極の地学調査のほか、砕氷艦しらせの稚内誘致活動、イトウ釣り規制問題、ついでにうちの病院のこ となど『MIKIOジャーナル』で取り上げてほしい話題はたくさんあるよ」

 「わかりました。ご期待に応えます」

やっと受話器を置いて、ふーっと息を吐いた。持つべきは有能な友人である。阿部が帰ってきたことで、ずいぶん力を得ることが多い。

阿部も私も本来はインドアよりアウトドアのほうが好きな珍しい人種だ。しかもお互いに一匹狼で、群れたがらない。その孤狼たちがたまにいっしょにアウトドアへでかけていって、楽しみながら仕事をする。そんな日々がまた近い将来やってくる。